ライブの一回性はマスメディアの正社員に嫌われる

芸術新潮は1980年代になって「音楽」を取り扱わない路線で安定走行しており、平成に入った1990年も事態は変化していないので、ここで一旦打ち切ることにする。

(雑誌として見ても、1985年10月号のウィーン世紀末特集で池内紀が書いたり、1988年9月号のオリンピック特集(「特集 オリンピック デザイン 記録伸ば史」という80年代っぽいダジャレのタイトル)で芸術オリンピックを取り上げたり、1990年にアートとしての広告の特集で柏木博が書いていたり、多少気の利いた切り口でその後につながっていく記事もあるけれど、「男の晴着」という惹句で甲冑を特集してみたり(1985年6月)、1990年の創刊40周年特別号が「特集 国宝」だったりして、芸術の抜け殻を扱っている感じが強い。アート自身の寿命が尽きたのか、想定読者と思われる小金持ちの中高年男性サラリーマンがこういうことにしか興味をもたない時代になっているということなのか、雑誌のパワーが落ちたと言うべきなのか、判然としないけれど。)

1985年の同誌は「音楽」に関わる話題が散発的に出てくる。

  • 1985年1月号から、妹尾河童の劇場の舞台裏を紹介する企画が連載になり、初回でスカラ座来日公演「セヴィリアの理髪師」の回り舞台が紹介される
  • 同じ号の「われら昭和世代の美感」という特集で、武田明倫が武満徹「レクイエム」初演を聴いた思い出を書いている
  • 1985年2月号の ART NEWS 欄に「客席から見えない指揮者百面相」として砂川しげひさのエッセイと木之下晃のステージ写真を組み合わせた記事が出る(文と写真の組み合わせ方は写真週刊誌を思わせる)
  • 同年2月号に映画「アマデウス」、9月号にオペラ映画「椿姫」の紹介記事が出る

1990年まで見た限りでは、これは本当の本当に、芸術新潮が「音楽」とアクチュアルに接触した最後のようだ。

80年代の砂川の音楽漫画とは何だったのか、いつのまにか「前衛音楽」派閥の領袖になっていく武田明倫の権力とは何だったのか、というのも気になるが、音楽映画が紹介されていることで、なるほどなあ、と思う。

一回的なイベント、ニュースが嫌われているわけではなく、芝居や映画や展覧会、パフォーマンスは、むしろ面白がられている気配があるのだが、音楽はここに絡まない。

何が違うのかと考えたら、演劇や映画や展覧会は通常1週間から1ヶ月続いて、しかもマスコミ向けの試写や内覧会が設定されたりするわけですね。おそらく取材記者たちのスケジュールがこの前提で組まれて、何月何日何時から、と1回かぎりのコンサートをこまめに拾う取材体制になっていない、そういう取材をしなくなったということじゃないかと思うのです。

60年代風文明論の「情報化」というキーワードをボードリヤールの消費社会論と組み合わせて、そこに左翼文化人が「複製芸術の時代」という都市遊民のレジスタンス(よく考えると古くさいイデオロギーだ)の旗印を提供する、という動きがこの頃から次第に顕在化して、90年代のカルチュラル・スタディーズに至るわけですが、

なんのことはない、彼らの主張は、サラリーマン的なスケジューリングにお墨付きを与えて、そのようなタスク管理からこぼれ落ちるものに、「古いモダニズム」とか、「アウラへの固執」とか、「ブルジョワ的」とか、適当なレッテルを貼り付けただけのことだったのではないか、とも思えてくる。

アートを離れると、一回性は「音楽会」だけの特性じゃなく、ごく普通にあちこちにある。

芸術新潮は、以前から「生活の中の芸術」を拾い上げる雑誌で、お高くとまることをよしとしない保守派ですが、80年代には一回性/一期一会を「祭り/祝祭」という概念に集約しようとしているように見えます。

これだけは見ておきたい桜特集、とか、祇園祭特集、とか、「和」の「四季折々」の行事が、売れ行きのための苦肉の策のような気もしますが、「アート」扱いで取り上げられるんですよね。

「中心と周縁」理論を思わせる周期的な「祝祭」(と日常の交替)はOKだが、ポツンとひとつだけ出てくるイベントは扱いに困るから、全部無視。

こういう風な「仕分け/割り切り」は、1970年代までにはなかった1980年代以後の特徴のような気がします。

(柄谷行人の「単独者」とか、蓮實重彦の「凡庸」とは異なる「愚鈍」とか、そういうのも、おそらく、ポストモダニズムというより、80年代的な一億総サラリーマン化(もうアートや文学も例外じゃないよ)へのリアクションと見た方がいいんじゃないか。

そしてなめらかすぎる世の中の動きの「穴」「陥没点」こそがクリティカルだ、という論調の先に浮上するのが、「おたく/オタク」なんでしょうね。)