依存の構造

日本を客観視するには外国人に日本を論じてもらうのが早道である、という考え方は、他人の評判を背負わなければ自分のやっていることに自信を持つことができない、というのと似ている。ヒトは、あまりにも多忙で疲れていると、そのようなダークサイドに落ちるのかもしれない。青年が中年になろうとする途上で中間管理職的な位置に留め置かれたときに発症しがちな症状であり、かつて「厄年」と呼ばれたのは、ひょっとするとこれなのかもしれない。

(そういう危うい時期にはじめての本格的な海外生活を経験しちゃったわけだから、ブレるのも仕方がないかもしれないけれど。)

自らの意志で事をなす、という選択肢を過大に見積もるのは危険だが、この選択肢を他者依存で抑圧・無効化するのは病んでいる。

(思い起こせば、私が30歳でドイツに1年いたときは、はじめての一人暮らしで、自活というものを軌道に乗せる面白さと、それがどうにか軌道に乗った安堵で1年が終わった気がする。日本よりも障害者が暮らしやすい環境になっているなあ、とは思ったが、日独文化の比較、などという壮大で抽象的な贅沢は、ほぼ脳裏に浮かばなかった。比較しようにも、日本で一人暮らしをしたことがなく、比較の対象となる経験を欠いていたわけで、くだらない「カルチャーショック」(死語)と無縁に過ごすことができたのは、幸運だったかもしれない。当時は「ナショナリズム」などという古くさい夢物語を大まじめに人々が実に屈折したやり方で再び論じはじめる時代が来るとは、夢にも思っていなかったしね。)