音程を指揮する

斉藤秀雄の指揮法はリズム(合奏のタイミングを揃えること)に注力している反面、音の上がり下がり、音程・メロディを脇に追いやる感じがある。「タ〜〜タッ、タン。ジャン。」というような決めのリズムのいわゆる縦の線はぴったり合うけれど、「ミ ファ ファ# ソ ラ シ ミ レ ド」というようなリヒァルト・シュトラウスにありがちなメロディのうねりとか、ワーグナー風の借用和音の連続を抜け出した末の霧が晴れたような長調のコラールのふくよかに満たされた開放感、とか、そういうのは斉藤メソードの範囲を超える。そして実は、後期ロマン派だけでなく、モーツァルト主義の簡明なエクリチュールも、音程・メロディーの快楽を伴わないとそれらしい仕上がりにならない。

山田和樹の出現は、彼自身が東京芸大出身なわけだが、日本の指揮界における「桐朋的なもの」に引導を渡しているような気がする。

斉藤風に指揮者がリズム/タイミング合わせに注力する方法論は、ピッチというのは奏者の問題であり、絶対音感の早期教育を施せば自ずと解消する、というような教育モデルとワンセットだと思うのだが、そのように割り切った効率化は、初速がいいけれども頭打ちで伸びない。合唱やオーケストラの演奏は、絶対音感風の目盛りに音をはめていくのではなく、最初に鳴った音を踏まえて、そこからの距離で次の音の位置を決めて……という風に組み上げられていく面があって、所定の箇所の演奏の難易度や表情はそうやって決まっていく。そういうモードで音を捉えることなしに、はいせーの!と棒を振る人は、合唱やオーケストラをつかんでいないことになるんだと思う。

録音したサウンドだけ聞いても、ある程度そのあたりの事情はわかるけれど、録音は色々なお化粧ができてしまいますからね。

そういう意味では、指揮者が音程を把握できるかどうか、というのは、サウンドの時代の終焉とリンクするようにも思われます。

(だからといって、ピッチを作ることに長けた合唱指揮者がいいかというと、楽器の事情を知らなすぎてダメだったりもするので、結局は、基礎から積み上げた地力が大事、というところに一般化すると話が落ち着いてしまう。だからこれは、あくまで、短期中期的な今の情勢の観測でしかないわけだが、さしあたり、リスナー出身だったりアマオケ出身だったりする「聴衆目線」のライターが批評的なことを言おうとしてトンチンカンなコメントを発してしまうのは、しばしば、このあたりの事情が彼らには「聞こえていない」し、そもそも、そのあたりが音楽の勘所だ、という発想を持たずに育ってしまっているのだと思う。そういう「耳が悪い/聞く耳を持っていない」感じのコメントをSNSあたりで発してしまう音楽関係者は、ひとりふたりではないように思う。そういう意味で、ニッポンのクラシックは、おめでたい裸の王様の楽園になりかかっているところがあって、そういう文脈があるがゆえに、山田和樹の出現には意味がある。彼は、「日本のオーケストラで一番馬力があるのはN響だ」と認めて、信時潔、柴田南雄をそれにふさわしく上演しようとする普通のナショナリストだし。

「みんな」が彼に群がるポピュリズムは愚かだが、ひとつの国にひとりはこういう人がいたほうがいい。)

[困ったことに、このように立論すると、はたして吉田寛先生に "音楽の国" が「聞こえて」いるのか、という疑念が生じてしまうわけだが。彼は、師匠の渡辺裕(←彼はああみえて案外耳は悪くない感触がある)と同様に、批評から逃げ続けて今日に至っているし……。たぶんこのあたりに失われた20年の不幸がある。]