分身と幽体注入

漢語にすると仰々しいが、要するにビデオゲームのアバターとアニメーションである。

アイコンがシンボルであると同時にオブジェクトだ、という指摘は、やはりその先に何かあるんだろうなあ、と昨日から考えている。

(1) 液晶画面の3D描画をしかるべくプログラミングされたポリゴンとして観察・記述・解析する、という立場がありうる。例えば、相棒を選ぶ、という機能を実装したことで、アバターのステータスを表示する画面はレイアウトが細かく調整されているのがわかる。ユーザー名の下に相棒名の1行が増えたことで、アバターの描画スペースが少し下にずれて、XPの表記順序が変わっているし、アバターと相棒が横並びのときと、相棒が肩に乗るときでは、アバターの位置を変えて、見た目がすっきり決まるように配慮されているようだ。(相棒が巨大だったり、前後に長く伸びている場合は、どうしてもプレイヤーのアバターとその相棒が並んだ姿は収まりが悪いけれど……。)

(2) いずれにしても、仮にこの描画を単なる絵空事 fiction ではない virtual もしくは拡張された現実と認めるところまでは譲歩したとしても、それは「この私/オレ」とは別のステータスで存在していると思いたい、という立場こそが、現状では「人文」の良心ということになっているようだ。「この私/オレ」を宗教・信念の位相で魂と呼ぶにせよ、ある種の論理の極北としてのクオリアと呼ぶにせよ、「言語論的転回」の教説を信奉すると、「この私/オレ」のステータスが悩みの種であり続ける。SNSに設置した自らのアカウントに

発言は所属組織の見解とは関係ありません。本人の見解とも無関係です。

と表記して、一種の幽体離脱を標榜するのは、その意味で、実に愚直な20世紀少年の態度なのだと思う。

(3) でも、やっぱり、ビデオゲームのアバターは、この姿勢を保持していると、端的に面白くないよね。

(アバターの機微の片鱗が見えたような気がするのと、球の的中率が上がって、Pが逃げるまえにボーナス点付きでたいてい捕獲できるようになってきたのがほぼ同時なのは、偶然なのか、そうではないのか。)

これがビデオゲーム固有の案件なのか、というのはよくわからない。

例えば、将棋やチェスをやる人は、「王/玉」「キング」を指し手のアバター(これは盤上における「私」である)という風に思うのかどうか。

一方、囲碁の場合は、盤上に白と黒という敵・味方の区別しかないので、白(もしくは黒)の石の配置(そして石をどういう手順でどこに配置するかという作戦)の総体が「私」である、という感じかもしれない。(ヒカルの碁は、対局シーンを、打ち手が石たちを意のままに動かすイメージで描いていたような記憶がある。)

話は一気に飛ぶが、ダールハウスはオーケストラにおける指揮者を「作曲家の代理人」と見るモデルを短いエッセイで提起したことがある。オーケストラ演奏において、指揮者は唯一スコア(音楽の全体像)を所持している存在なので、作者のエージェントとして楽員の前に君臨できそうではある。そう主張したくなる根拠はある。

でも、このイメージはおそらくやや古くさくて、クラオタがオーディオ器機の前で指揮棒を振り回す「エア指揮者」現象は、リスナーが指揮者を「私」(作曲家ではなく)のアバターだと見なしているのかもしれない。

歴史的には、劇場の観客の前に「音楽の王」として君臨したワーグナー(岡田暁生『オペラの運命』参照)とその配下のワグネリアン指揮者たちが「作曲家の代理人」の頂点で、連作長編小説さながらに「セカイ」を描ききろうとしたシンフォニーを指揮する姿がジャーナリズムで戯画化されたベルリオーズからマーラーへ行くラインが、「リスナーの代理人」の起源かもしれない。

このあたりの事情を上手にまとめたら、吉田寛先生は渡辺裕の学説史上の嫡男、ということになるのかもしれないけれど、そういう風に学問がわかりやすいストーリーに収まるのがいいのか、世の中そう簡単じゃないのか、それは誰にもわからないし、そもそも余計なお世話ではある。学者は、何かのアバターとして生きているわけではないだろうから。