Bloody shared singularity

漆黒のツルツル(セブンですか?)のCMを見ていると、"most singular design" という言葉が聞こえて、ほう、singular (単独性)にも、more/most や less/least といった比較が成立するのか、宣伝広告というのは言語を拡張するパワーを発揮するのだなあ、と思ったのだが、singular の用例を検索したら、AIの singularity なる最近のバズワード以前に、バラク・オバマが2008年の大統領選勝利演説でこういうことを言ったらしい。

And to all those watching tonight from beyond our shores, from parliaments and palaces to those who are huddled around radios in the forgotten corners of the world, our stories are singular, but our destiny is shared, and a new dawn of American leadership is at hand.

http://www.nytimes.com/2008/11/04/us/politics/04text-obama.html

「我々の物語はそれぞれ単独かもしれない。しかし我々の運命は共有され、アメリカのリーダーシップは、新たな夜明けを手にしたのである。」

singular なもの(いわば「世界にひとつだけの花」たち)が share される、というヴィジョンがオバマ民主党的な2010年のリベラルであり、だから、most singular なデザインは、オバマのように、アメリカ(ニアリーイコール世界)の頂点に立つのですね。なるほどこれは、シンボルがオブジェクトである表象システムの世界性だなあ、という感じがします。クール・ジャパンもこれを目指すべし、というわけだ。

shared singularity とでも言うべきヴィジョンはなるほど強力で、正攻法では反論できそうになくて、自家用ジェットで全米を飛び回るおっさんの暴言の嵐、ゲロゲロ、グチョグチョに清廉潔白を汚す立ち位置くらいしか対抗馬が見つからない。それがポピュリズムである、ということになるのでしょうか。

(SNSで議論や批判的吟味が一方的に dis と決めつけられがちな風潮は、こうしたメリケンな shared singularity に帰依した人たちが、己の立場に異を唱えたり、自身を脅かしたりする現象・存在に、自動的に「やっかみ・嫉妬・ゴミ・下流」等々のネガティヴなレッテルを貼り付ける警備システム、オートマチックな安全装置を導入して、思考停止に陥っているようにも見えますね。)

そういえば、「赤」に対するセンサーの感度を異常なまでに研ぎ澄ました元東大総長さんは、オバマの大統領就任演説を血染めの不吉な言葉たちであると解読していましたが(『随想』)、そんな元総長先生もまた、bloody shared singularity を直接意識したわけではないかもしれないけれど、ゲロゲロ、グチョグチョな言葉を並べた小説を書き、昭和45年にゲロゲロ、グチョグチョにまみれて死んだ小説家の名を冠する賞を得た。

吉田秀和が水戸の館長として死んだり、総長の行き着く先が水戸と縁のあるらしき三島だったり、bloody shared singularity の時代は、異を唱える方も血なまぐさくなるようだ。

shared variety というのは無理なのかなあ。何の理論的な後ろ盾もありませんが、でも、musics を言いうるのであれば、結構いけるんじゃないのかなあ、と思ってしまうのですけれど。