攻めと守り

サッカーの失点を避けるチームと勝てるチームの違いというのがそれなのかもしれないが、弱い個体が身を護るために群れを作るのと、単体では突破できない壁を破るために、というか、そもそも今は存在していない(認識されていない)領域へ踏み出すためにチームを組むのとでは、集団といっても作法や編成が違ってくるだろうと思うのだけれど、「つながりの社会学」風の議論では、ひょっとすると後者が手薄かもしれませんね。「あ、ボールが飛んできた。誰かが取るだろう。おれの持ち場はここだから知らないよ」みたいな(笑)。

今はどこの国でパソコンやスマホを起動したとしても、ネットワークでつながって多言語対応しているので、どこにいても「日本語(のコミュニケーション)」が阻害されることはないだろうし、「外国にしばらくいると日本語を忘れたり、日本の事情に疎くなる」というのは、微細なレヴェルまで行けばありえないとは言えないだろうけれども些事になりつつあるのだろうから、高額な国債固定電話と往復に数週間かかる郵便しかなかった20年前とは何かが大きく変わっているわけだが、だからこそ、外国に出て「内向きの日本語」を忘れてしまった環境で日本語を使い続ける話者、というのは、出てくるだろうし、そのような日本語こそが、新しい社交の言葉として有望なのかもしれない。

(映画の中で「日本人から見た日系米国人」という入れ子状の奇怪な存在をステキに演じたとされる日本人(入れ子はいったい何重になっているのか)を論評するよりも、ゲスに引っかかって大変なことになっちゃった人に、もういっそ外国に出ちゃったほうが良さが生きるんじゃないの、と言ってあげるのが先じゃないか、とか。)

ちなみに、関係があるような、ないような話だが、日本のプロのオーケストラで「福利厚生ありの固定給」を導入したのは、大阪フィルのほうがN響などより早かったらしい。好条件で移籍交渉(当時はもっと露骨に引き抜きだが)を有利に運ぶ狙いもあったようで、あのオーケストラの足腰がしっかりして長続きできた理由のひとつではあるかもしれない。