リアクションを受け流すこと

巨大な「同意」へと観客を編成する装置だと言えなくもないワーグナーの楽劇が、作者の生前から歿後150年が近づこうとする現在まで、毀誉褒貶の震源であり続けているのだから、人類は、ちょっとしつこすぎるんじゃないかと思うくらい芸術について自由に物を言っている気がするのだが……。

(東アジアの島に生まれた優秀な頭脳が生成したテクストが学問として国際的に認知・登録された事実は、芸術論が自由であることの証、だったんじゃないのだろうか?)

「誰が何を言ってもいい。」

別に「禁止事項」はないんじゃないか。ただ、介護職員が官房長官に対して自由に意見を申し述べたときと、さっき聴いた演奏についてそのプレイヤーに感想を述べたときと、研究会のあとの飲み会で発表者に話しかけたときとでは、自由に物を言ったことに対するリアクションが違う可能性はある。仮に「そんなことを言うな」という圧力をリアクションとして受信したとしても、受け流せばいいだけのことではないか。受け流す構えができていない状態で自由にものを言えば、それはまあ色々大変なことになるかもしれないが、それもまた人生、なのであろうし。

「自分の言ったことに周囲が同意して欲しい。同意を取り付けることができない場合は、自由に物をいっていい状態であるとは言えない」

という風に、周囲のリアクション込みで「自由」を定義する、というのは、言論の場においては、オーバースペック(わがまま)なのではなかろうか。

「自由」を実現するために反論を禁止する、ということになると、それは、リベラルの人が忌み嫌う「全体主義」(とは何なのか、実はよくわからないのだが)のマイクロ・ヴァージョンになるんじゃないか。反論禁止こそがガヴァナンスである、という風潮がゲーティッド・コミュニティとしてゼロ年代に夢想されたのは知っているが、「音楽の国」という観念は、ひょっとすると、ゲーティッド・コミュニティと重なるのでしょうか? まさか。

(千葉氏は、周囲が心配しなくても十分自由なんじゃないかな。切れるときは正しくブチ切れるみたいだし。)