リベンジの構造:19世紀の私憤と20世紀の私怨

私小説や自然主義リアリズムもそうだろうし、ベルリオーズが失恋体験を標題音楽に昇華する、というように、近代のロマンチシズムがモダニズムにつながっていくラインには私憤を公憤に接続する回路が装填されていて、ワーグナーもおそらく私憤の塊だったのだろうし、これは、そういうことが文化や芸術に登録される時代や環境がかつてあった、ということだと思う。

(アートがそういう風に私憤を昇華する回路を装着してしまっているが故に、後世の研究者が、シューベルトの友人たち(学校の先輩でエリートだとはいっても所詮は20代の若造である)の手記を丹念に読んだり、パリのボヘミアンたちのぐちゃぐちゃした人間関係を読み解いたりしなければならなくなっている。)

一方で、最近はあまり表に現れなくなっている気がするけれど、「クラシック音楽嫌い」というのがある。新時代のクラシック音楽マンガとして歓迎されたように見える「のだめカンタービレ」にも、子供の頃のピアノのレッスンでのトラウマ、というのが出てくる。

相対主義の観点から特定の国の都市文化のみを正典視するのはおかしい、とか、アートがマスカルチャーに敗北するのは世の趨勢である、とか、その他様々な理屈で公論化されているけれど、事柄の性質上、どうもこういうのは、個人として私的にかつて何か嫌なことがあったケースが多いような感触がある。19世紀のブルジョワに私憤を公憤に昇華する物語があったとすれば、20世紀の大衆には、私怨を公的弾圧に昇格させる欲望がある、ということなのかもしれない。

個人的に嫌な体験があって、それが原点だ、というケースは、(公然と不特定多数にその体験をさらけ出す必要はないかもしれないけれど)他者がアクセス不能なブラックボックス(黒々とした欲望)に育てる前に、私的な体験として整理しておいたほうがいいような気がする。

おそらく21世紀は、私怨を公的弾圧に昇格できてしまうような「体制」を解体する方向へ進むだろうから。

私怨に基づく公的弾圧(まあいわばイジメだよね)を無事解除できる目処が立った暁には、たぶん、誰がどのような私怨にもとづいて動いていたのか、ということが、ちょうど19世紀の芸術家の私生活を後世が実証的に調べ上げたように、逐一検証されることになるだろう。

(既に政治史では、「人類に対する罪」と公論の水準で糾弾されてきた第二次世界大戦期の「体制」の指導者たちの、ほぼ「私怨」と見ることのできそうな欲望の動き、ヒトラーやスターリンやマッカーシーの小物ぶり、が語られ始めているように思う。100歩譲って、フォーク・ロックシンガーに平和を希求する財団が賞を与えることに意味があるとしたら、このような20世紀の「体制」の機微を突くには、文学よりポピュラーソングのほうが有効な局面があったことに改めて光を当てた、というようなことになるのかもしれない。)

20世紀に対する「後世の歴史家の判断」は、そういう手続きを含むことになりそうな気がします。

私怨で動くタイプの人は、そういうことを一応想定しておいたほうがいいと思う。

(私怨は、私怨以上でも以下でもなく、「人間とはこうしたもの」とか、そういう風にはならんと思う。)