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中村とうようと細川周平はどこかのリングで今も対立しているのでしょうか?

『音響メディア史』という本は、おそらく、地道に積み重ねた調査研究の成果を世に問うべくアウトプットする、という形で作られた書物ではなく、出版社や編集者から「何か書きませんか」と言われて、手持ちの(万全とはいえない)材料を著者たちが持ち寄って、とりあえず出した、というのが舞台裏の実情なのではないかと、私はこの本が出た直後にそのように推測したのだが、違うのだろうか? (谷口のコメントは、私の推測と矛盾しないように見えるが。)

「書物(もしくは研究)とは、常に現在進行形のブリコラージュでしかありえない」みたいに斜め上から増田聡あたりが殴り込みをかける前に、機先を制して言っておくが、ここでの問題は、たぶんそんな高踏的な原則論ではない。

とりあえずの書物です、というのであれば、そのように正直に申告しておけばよかったのに、あたかも、今後のスタンダードとなる教科書であるかのように体裁を取り繕うからツッコミが入る、ということなのではないでしょうか。

そして、この「体裁を取り繕う」姿勢は、おそらく、むしろ例えば、広告代理店が「神様であるお客様のリクエスト」には何がなんでも従う、みたいのと類似する構えだと思う。本を出してくれるというのであれば、何でもいいから出さねばならぬ、据え膳食わぬは学者の恥、みたいに思い込んだのではないか。

結局のところ、キラキラ系であればとりあえず本が出る、という風潮を、利用したつもりで足下をすくわれた、ということじゃないのでしょうか。

論文や調査報告書は、いいかげんなものを出したら誰にも相手にされずにそれで終わりだが、書物のような商品に欠陥があったら買ったユーザーからクレームが来る。しかも「教科書」は通常の読み物よりも長く使い続けられることが想定される。最も制作に注意を要するジャンルに安易に手を出したツケが回っているのだと思います。

でも、ここ1、2年で、もっと若い世代の研究者が、この手のキラキラ系で浮かれない成果を掲げて世に出てきつつあるし、キラキラ系学問の盛りは過ぎているように見える。ほっといてもこの手のグダグダは退潮するだろう。新書市場で若手研究者の成果をそのまま書き下ろさせるブームは、既に弾切れで退潮していますよね。これは、その種の一過性のブームのあとの出がらしみたいなエピソードだと思う。

それはそうと、ポピュラー音楽批評には、いまだに、在野の中村とうようvsアカデミズムの細川周平、みたいな対立の構図があって、今もまだ、その弟子筋や舎弟筋による代理戦争が闘われているのでしょうか?

いつまでもそういうのがくすぶるようであれば、ポピュラー音楽研究も、ちゃんと、自らの来し方を総括する「研究史」を(二次文献の手前勝手な切り貼りではない実証ベースで)まとめておいたほうがいいんじゃないでしょうか?

在野とアカデミズムは相容れない、みたいなわけのわからん意地の張り合いと、ポピュラー音楽は爺むさいアートへの若者たちの反抗だ、みたいな古くさい物語は、さっさとお払い箱にしましょうよ。

在野のおっさんから、「既にここに書いてあるわい」と言われたら、論文じゃないやんけ、とか、火に油を注ぐ口答えせんと、黙って入手して読めばええことやんけ。アホちゃうか。何をしょうもない言い合いで時間を浪費してまんねん。