サロンと酒盛りと「音楽のペテロ」

日本の社交は、いまだに「飲み会」という言い方で酒を飲むことを強調する傾向があるようで、この風習は21世紀にも引き継がれるのでしょうか、それとも、「人文」の衰退とともに、中年以上のおっさんだけがこだわる古い習俗になっていくのでしょうか。

私が知っている九州鹿児島の親戚の集まりでは座敷に男だけが車座になって、女性は厨房を出ないのだが、妹が嫁いだ奈良の古い家はそういうわけでもないので、「酒盛り」は男性共同体の習俗だ、と決めつけるのは性急かも知れないけれど、日本の大学は女性が少ない職場であることを考えると、大学の先生たちの「酒盛り」は、学生時代以来のツレである男たちの集まりになる可能性が高いようにも思われ、「飲み会」文化の行く末とともに、気になるところである。

というようなことを考えたのは、18世紀までの宮廷文化と19世紀のサロン文化(既婚女性がサロニエールとして主催する)の狭間で、シューベルトの交友関係には女性の影が希薄だからである。「もてない男」というのは確かにあるだろうけれど、それ以上にメッテルニヒのウィーンは奇妙な街だった、ということのような気がしてならない。

同時期のベルリンは、メンデルスゾーンやベーアなどのユダヤ人サロンだけでなく、その前からその後まで様々なサロンがあったし、ウェーバーのような旅するヴィルトゥオーソはある街のサロンから次の街のサロンに飛び石のように移動していた(ウェーバーはその経験をもとに音楽家のための旅行ガイドを書こうと計画したこともある)。そして七月政権でパリの社交界が花開く頃から、ドイツでもサロン的というよりビーダーマイヤー的な姿で、社交が広汎に機能するようだ。

メッテルニヒのウィーンにおけるシューベルトと帝政末期ロシアのチャイコフスキー。小鍛冶邦隆が「音楽のペテロ」と呼んだ告白体は、誰もが我がこととして共感できる心情というより、相当特異な環境で発現したと見た方がいいかもしれない。

(しかもシューベルトは30過ぎで死んでしまった。もっと長生きしていたら周囲の人間関係が変わったかもしれないし、ムソルグスキーの晩年のようにさらにすさんだかもしれない。これは考えても仕方がない。ハイネと出会ったシューベルトが世界を「輝かせる」というより「凍り付かせる」表現を発見したその先に西欧流の音楽のリアリズムがある、みたいな話を組み立てると、シューベルトをチャイコフスキーではなくムソルグスキーと関連づける線が見えるかもしれないけれど。)

20世紀から21世紀の転換期のニッポンで「酒盛り」する男の知識人たちが、同程度に特異な環境を生きていると言えるかどうか。そこは、まだよくわからない。そういう人たちの日本文化研究が「クール・ジャパン」をキラキラ輝くアカデミズムでオーソライズすることになりそうな気配が濃厚ではあるわけだが……。

ヨーロッパの文化としてはかなり特異かもしれない「音楽のペテロ」たちをニッポンの「酒盛り」知識人が歓迎してしまうと、話が簡単になりすぎて、比較文化の緊張感と旨味がかえって台無しになるかもしれない。堀朋平を「酒飲み」サークルに近づけてはならない(かもしれない)。むしろ、酒豪になったほうが出世が早いかもしれないので、ここは考え所だが。

(それにしても、今から振り返れば、岡田暁生のように酒に飲まれる人は、結局、日本的社交においては長続きしなかったですね。)

作曲の思想 音楽・知のメモリア

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〈フランツ・シューベルト〉の誕生: 喪失と再生のオデュッセイ

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