アーカイヴは単数で考えねばならぬのか?

ある事柄に関するアーカイヴが単一で排他的なものである(のが望ましい)、という風に想定した場合には、そのアーカイヴが何かを捨てることは、捨てられたデータ(に紐付けられた事例)があたかも存在しないかのように闇に葬られることになる。

でも、唯一の排他的なアーカイヴを人類が構想して、それが完成する、などということは未だかつてあったのだろうか? 今後も本当にありうるのだろうか?

ひとつのアーカイヴが何かを採用しないときに、その基準や原則を明示しておけばいいだけのことではないか。別のアーカイヴがこれとは別の基準や原則で存在して、そっちで拾われることがありうるのだから、何かを捨てる/採用しないことは、すぐさま排除・抹殺にはならない。

何かを捨てる/採用しないことを過剰に怯えて、そこに「まるでナチスのような」という比喩を導入するのは、ナチズムとは何であったのか、ということについての理解が変だし、唯一の排他的なアーカイヴというイメージが、バベルの塔の寓話を忘れて、Google 風のデジタル・データベースのイメージに引きよせられすぎているのではないだろうか。

そこに原理的な問題があるかのように恐れるのは、20世紀後半から21世紀初頭(2010年頃か?)までの歴史的な状況に縛られすぎて、視野狭窄に陥っているような気がします。

(「教科書」もそうで、作った当人はこれを定番として使ってもらえたら、と思って作るだろうし、作った当人は実際にそれを使うだろうけれど、大学生や社会人が何かを勉強や調べ物で「教科書」的に使うときは、別に国定や勅撰じゃないんだから、気に入らなければ別のを使えばいい。「新しいスタンダード」を標榜した「教科書」に不備があったとしたら、なるほどそれは残念なことだし、同業者は、もっとしっかりやれよ、と思ったりするけれど、別にそれは、文部省が検定教科書を作ると決めて、その検定基準に問題があった、というようなことではないのだから、国民的な議論や各方面を巻き込む大論争になるのがいいのか、どうなのか、はっきりしない。)

[往年の左翼さんは、ソヴィエト共産党の綱領やインターナショナルの方針に一喜一憂したり、分派勢力がそれをあげつらうことで自らの立場を鮮明にしたり、ということがあったようだけれど、大学の教科書にそこまでの威光は、たぶん、ない。暫定で今あるものを使える部分だけ使ってやりくりしながら、次の教科書を作ればそれでいいじゃん。]