「人文」は転向した放送作家を模倣する

宣伝(発信者に好都合な情報のオンライン伝達)という形で「即効性」を散々利用しておきながら、批判への応答といった発信者に不都合な情報のオンライン伝達においては沈黙や遅延が許される。要するにいいたいことだけ言いっ放しでいいじゃないか、という態度は、言い訳したり、難しい言葉で粉飾したりしても、信用を失うことに変わりはなかろう。知識人が、小難しい言葉で時間を稼いで身内を守るのは、今にはじまったことではないわけだが……。

前に書いたのと同じことになりますが、そのキラキラが制度の采配による相対的・暫定的なものに過ぎない事例である場合は、関わり合いになると時間と労力が勿体ないので、その事案の信用失墜の等速運動が始動した段階で、あとは慣性の法則で墜ちていくのを放置すればいいんじゃないか、と思います。信用失墜を回避するかどうかは、批判する側ではなく、される側の手番なのでお手並み拝見ということになる。

ただし、制度の采配による相対的・暫定的なキラキラが、信用を失っているのになかなか墜ちないので見ていて苛々する、というのも20世紀のおなじみの光景ではあるわけですね。

「制度によって遊ばされている人々」と「制度によって愚痴を言わされている人々」というのがいて、その傍らに、「制度によって成果・業績を出さされている人々」がいる。そういう人たちがお互いにエールを送り合う姿が日々オンラインで速報されるのがSNSの現在の姿であるわけで、これは結局「使役の不快」というようなものだと思う。

(一昔前だったら、歌舞伎の台詞の本来のプロットとは異なる誤用ではあるけれど、「すまじきものは宮仕え」などとつぶやくところかもしれない。)

そしてこの「制度によって○○させられる」という様態の起源はどこかと溯行して、現代大衆文化に関してはおおむね1940年代の「新体制」(総動員がスローガンであったような)あたりを批判の俎上に挙げてカルスタ・ポスコロが展開されて、世界史的視点から見た野心的な議論を組み立てようとするときには、もう一皮めくって、啓蒙の否定弁証法というようなことが言われる。「近代批判」である。(ワーグナーとかシューベルトとか、ドイツ・ロマン主義の周辺が新たな装いで再検討されるときには、たいてい、そのような現在の視点から見た近代批判の焼き直しである。)

阪田寛夫「海道東征」(講談社学芸文庫の阪田寛夫小説集に収録されている)を移動時間に少しずつ読んでいるのだけれど、朝日放送をやめてかなり経った1987年に発表した小説で、この3年前には「わが小林一三」を書いたりしているのですね。東京音楽学校作曲専攻の設立に尽力したのだけれども、事務仕事にわずらわされたくないから、という理由で講師の立場を通して、戦後は公職からフェードアウトした信時潔に、放送局を止めて作家になった阪田寛夫が共感しつつ、自分の放送局プロデュサー時代を振り返る、という仕掛けになっている。

こういうのを読むと、「総動員批判」「近代批判」というのは、事後的に「ポスト○○」として事立てされるしかない新しいことではなく、リアルタイムに、それこそ「速報オンライン的」に当事者たちの脳裏にあり、そのようなものとして生きられていたことの焼き直しに過ぎないんじゃないか、と、拍子抜けする。

紙に小説・評伝・回想として既に同時代的に書かれていたことを情報社会の装いでオンラインの社交として模倣・反復するのが今の「人文」ということだと、実につまらないわけだが、まあ、所詮その程度のものでしょうか。

そういえば、筒井康隆に文学部唯野教授というのがあって、あれは、作家自身の体験ではなくテリー・イーグルトンをネタ本にしているけれど、大学もまた「業界」であり、そこには当然「使役の不快」というものがあり、作家という立場にドロップアウトすることでその内幕を書くことが可能になる、ということだから、テクストが書かれる構造は放送作家の小説とよく似ている。

阪田寛夫や小林信彦から「永遠のゼロ」の人まで、放送作家から作家に転身するパターンがあるわけですが、唯野教授は、「ポストモダン」のパロディというより、むしろその種の業界出身作家の内幕小説のパロディですよね。

でも、だからといって筒井流ポストモダンは底が浅い、とか、そういう風に言うのは、むしろポストモダンの罠であって、ポストモダンの「使役の不快」を起源に溯行して撃つ、みたいな道具立ては、そもそも、業界内幕小説に過ぎないと思ったほうがいいんじゃないか。

論理と倫理が破綻して、慣性の法則に従って墜ちていくしかなさそうな現象が、それにもかかわらず、いつまでもキラキラとあたりに浮かんでいるのは、悪や陰謀や権威がそれを守っているのではなく、通俗的なのぞき趣味を追い風にしている気がします。寿命の尽きた人文学者は、そのようにストリップをはじめるし、まだ学者としてやっていこうとしている者は、「脱げ」(さっさと俺たちの詰問に応答しろ)と言われても脱がない。

80年代の芸能界ののぞき見趣味はダイレクトに写真雑誌の快進撃とヌード写真の乱造(本当に次々色々な人が脱いだ)に向かったわけですが、「人文」の凋落は、この図式をオンラインで即効的な情報のやりとりとして反復しているに過ぎないような気がします。

最終的には「ありのままの瑞々しい姿をさらす」(脱げ、おれたちに全部見せろ)という価値観(欲望)に身を委ねている点で、読めば面白いのだけれども通俗的な放送作家の業界内幕小説と、「使役の不快」につきあわされてゲンナリするしかない「人文」の一方的な情報発信はよく似ている。ベトついた感情移入を「悪しき19世紀」と呼ぶ20世紀の形式主義美学に倣って、欲望に無防備な言論を「悪しき20世紀」と言いたくなってしまうじゃないか。

(阪田寛夫の信時小説は、暴露、というのとは違う面白さを含んでいると思いますが。)

P. S.

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近所にこんなものが出ているようだ。珍しい。この時刻だと崖の下のすぐには行けない住宅街だから騒いでもしょうがないし、トカゲはもう間に合っているが。

(対象の何をどのように視覚イメージとして切り取るか。ゲームであっても、人体に対するのと同様に「局部の露呈」風の暴露的な写真術が成立してしまうことがあるように思います。そうならないように気をつけているつもりではあるのですが、うまくいっているかどうか。)