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人文科学の不幸が学会口頭発表の司会という立場に集約されてしまうことへの怒りと憐憫

昨日の学会発表を終えたあと、私はずっと不機嫌だったのだが、一夜明けて、何も後ろ暗いことはしていないし、自分の発表内容を整理して、当然問題点は色々あるにしても、現時点でのベストを尽くしたと自己評価しております。

どうやらこの不機嫌は己への後悔とは違う何かであるらしい。

日本音楽学会は、ドクターX流に言えば「ブランディング」をミッションと考えているところがあるらしく、そのような活動方針の一環として、学会が認めた論文は一流であり、学会行事における口頭発表も同様である、と言い張ろうとしている気配がある。

たとえば、学会誌の査読を通ると、なにやら仰々しい「認定書」が大げさな手続きとともに送られてくる。まるで、なにかの免許状や証明書であるかのように。はっきりいって、お金も人員もギリギリのボランティアなんだから、こういう無駄は要らないと思う。学会誌が刊行されたら、「ああ、この論文が査読を通ったんだな」とわかるわけだから、学会誌本体があれば十分だろう。

学会(とくに全国大会)の発表についても、どうやら、「我が日本音楽学会が良い研究であるというお墨付きを与えた粒ぞろいの研究発表を皆様にお届けします」みたいな体裁で行事を執り行いたいらしい。(だから、発表の要旨と配付資料はすべて事前にチェックを受けろ、みたいなことを命令するのでしょう。)

でも、口頭発表というのは、口頭発表というメディア(伝達形式)の性質上、実際にやってみないと、何をどのように事前チェックしたって、どうなるかはわからない。

そして、口頭発表とはそのような性質の行為であるからこそ、質疑応答の時間を設けて、発表の「あとで」その内容に関して討論するのだと思います。

(現行の学会というものは、国際標準でそういうことになっていますよね。)

ところが、この学会の司会者は、発表内容に疑義を呈するような質問を発しようとすると、司会者がこれを静止する。

あれは何なのか?

要するに、間違った前提で行事を「ブランディング」しようとすることの矛盾が、事前検閲とか会場での質疑応答の越権行為的なコントロールという形で、現場責任者(司会者)に集約して、司会者が負わなくていい無用な責任を負わされる構造になっていると思う。

私の不愉快の原因は、たぶん、これです。

反論があれば、エアリプでも何でもいいので歓迎します。

付記

おそらく教育的観点から司会者が発表者をサポートする、といった発想があるのだと思いますが、問題は、その場合、成果としての発話の主体は誰なのか、だと思います。質疑は発話主体に対してなされるわけですが、一般に公開されている学会において、質問者は誰に対してといかけることになるのでしょう?

事前検閲を経ているが故に、お問い合わせは発表者個人ではなく、株式会社日本音楽学会までお願いします。なのだろうか?

だがそうなると、もはや、個人が自身の発表を自らの業績にカウントできなくなる、発表者の業績なのか、司会者との共同研究なのか、区別できなくなる、といった、無限責任の泥沼に自らの足を踏み入れることだとおもうのですが、いいのだろうか?

発表内容の事前開示を学会が発表者に求めるのであれば、論文査読と同様に、まずその目的を事前に明示して、なおかつ、やりとりが検証可能な形で記録される仕組みがないとおかしい。

研究の主体と由来を組織的に隠蔽して検証不可能なブラックボックスを組み込むような制度設計に、まともな研究者が加担したいと思うだろうか?

学会を教育の延長で設計するのは、端的にガラパゴスで上げ底な過保護だと思う。