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詩形の効力

考えてみれば、母音の長短をさほど重視しない強弱アクセントで話されるゲルマン諸語で、イアンブスやトロカイオスを語るのは奇妙なことで、ヨーロッパの韻文におけるラテン文学の影響(継承)はさほど自明ではない気がする。そしてこれはさほど自明ではなさそうだ、ということの余波は多方面に及ぶかもしれない。

明治以後の日本の「詩」は口語七五調の新体詩から自由リズムに進んで、どこがどういう風に「詩」なんだか、おかしなことになっているが、あれは、ちょうどヨーロッパでラテン文学伝来の詩形の拘束力が次第に落ちて、詩形が知られているけれども厳格に踏襲されるわけではない状態になった頃合いに明治維新でこの島が欧化して、そういうテクストが輸入翻訳されたことによる徒花なんだろうと思う。

逆に、詩形が意味をもっていたラテン世界で、キリスト教と帝国の間に軋轢があった頃には、ユダヤ・キリスト教が伝承する祈りや経典の言葉は、かなり奇妙な印象を与えたのではないか。「キリスト教の声(言葉)」が音声中心主義とのちに言われる性質を帯びたのは、ラテン世界の言葉との差異の余波だとは言えまいか。

一方で、聖書(とりわけそのなかの詩編)がゲルマン諸語に翻訳されて伝承されるときには、どうにかしてこれを韻文で訳す試みが様々になされたらしい。そういう捻れた意欲が、詩の形(発話される言葉のリズムと形式)への態度をややこしくしているかもしれない。

「言葉の自然」を夢想標榜して詩形の効力圏外に出ようとする試みは、おそらく、そういう風にややこしく捻れた環境と無縁ではない。そして、ワーグナーの楽劇はバール形式である、という主張がなされたり、詩形をめぐるややこしい環境は、音楽の動向とも無縁ではなさそうだ。シューベルトが即興曲のトリオをバール形式にまとめる、というようなことも起きていたのだし。