ジャズと民族音楽の影

カーチスの学生たちがものすごくマジメにシェーンベルクの室内交響曲を演奏していたり、若き日のゲルギエフがロッテルダムでストラヴィンスキーのピアノと管楽器の協奏曲を演奏した映像があったり、東京でも評判だったらしいユジャ・ワンのショスタコーヴィチ「ピアノとトランペットと弦楽のコンチェルト」を見ることができたり(確かにこの曲は彼女向きかもしれない)、そうかと思うとパールマンがクレズマー楽団と共演した古い映像が見つかったりして、YouTubeはすごいなあと思う。

こういう映像をみていると、20世紀前半のモダニズムの先端のアヴァンギャルドは民俗音楽や大衆音楽と骨がらみだったことが痛感される。新古典主義の小編成の合奏は表向きはバロックや古典派への先祖返りだけれど、サウンドやノリはしばしば軽音楽風だし、巨大編成のオーケストラを使い続けようとすると各パートがアンサンブルと呼ぶにはお互いが異質すぎる断片をそれぞれに演奏してガムランみたいになることがある。

そういうのが新しかった幸福な時代だったんでしょうね。

(そういえば朝テレビでちょっと見ただけだけれど、鈴木雅明の息子さんの演奏は、「バッハの音楽というのが当時はロックのようなものだったんだ」という意図的なデモンストレーションというより、リズム感とかサウンドのとらえ方とか、ロックのようにしか弾けない人なんじゃないか、という疑いを抱いた。邦楽の家でも、最近は、洋楽のような音感で演奏してしまう家元や跡取りがいるわけですが。)