万博が「芸術で食べていける」時代をもたらした

小野光子の武満徹評伝は、武満徹が作曲家になるまでが第1章、「弦楽のレクイエム」までが第2章。そして第3章は1970年の万博で終わる。「作風」で武満徹を語るときに言われてきた「カトレーン」等の1970年代半ばの脱前衛化で章が切れてはいない。

1970年代を語る第4章には、最初のエッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』を新潮社から出すときに大江健三郎が奔走した(たしかにこのタイトルは大江健三郎の小説のタイトルと雰囲気が似ている)、とか、ホリガーやニコレからの委嘱は日本ロシュを通じてであった(パウル・ザッハーの妻が Hoffmann-La Roche のオーナーだったんですね)、とか、知らなかったことがいくつかあって、たしかに万博で武満徹の周囲が変わったように見える。どうやら、万博という国家プロジェクトは、在野のアーチストと企業をつなぐ縁結びの役目を果たしたようですね。西武セゾンのミュージック・トゥデーは、コンセプトが万博鉄鋼館のシンポジウムを引き継いでいるだけでなく、企業が前衛アーチストを起用する、という発想自体が万博由来だったように見える。

財界には、それ以前から芸術(芸事)を支援する気風はあった。山田耕筰も朝比奈隆も武智鉄二も、社長たちのパトロネージュがなければ在野で大暴れすることはできなかったはずだ。そこから財団に基金を詰む形の企業メセナへの転換に万博がどう絡んだか。大阪万博をそういう視点で検証してはどうかと思う。

ともあれ、万博が「芸術で食べていける」時代をもたらした。

私たちが、今その事後処理に苦労しているものの正体はこれかもしれない。

(FM東京のプロデューサー東条は、芸術家を「食わせる」側の企業人として評伝に登場する。たぶん彼は、今も、俺は音楽家たちにオマンマを食わせるために動いている、という意識じゃないかと推察される。私は、もうそんな時代ではなくて、そんな発想でやっていたら音楽と音楽家が腐ってしまうと思っている。)