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日本ショット社と東京コンサーツ

小野光子の武満徹評伝の1980年代を扱う第5章は、武満が1980年に日本ショット社(ショット・ミュージック株式会社)と契約した、という記述ではじまる。マインツのショット社が日本法人を設立したのは1977年だが、設立直後にショット社側からアプローチがあったのだろうか。武満徹は「ボク」の個人主義を標榜して、個人の意志と人脈で動いている体裁だったはずだが、ショット社は、社名があるだけで個人の顔が見えない。どういうことなのだろう?

とりあえず、ポスト武満と言われることもあった細川俊夫はショット社と契約している作曲家らしいのだが、日本ショット社は具体的にどういう風に作曲家をプロモートしているのか、姿が見えないのは不審である。

あと、1960年代のオーケストラル・スペースが武満徹、一柳慧の自主企画であった、という記述に添えて、協力した団体のひとつとして東京コンサーツの名前が出る。

サントリー音楽財団(現芸術財団)の作曲家の個展が東京コンサーツの所属アーチストを順番に取り上げているのは知っていたが、会社概要を見ると、「音楽・企画・制作」の「テレビ関係」にNHKの大河ドラマや連続ドラマがいくつか載っている。

子供の頃、胸躍らせながら毎週日曜日のテレビのオープニングで目にした毛筆縦書きの「東京コンサーツ」は、武満徹や猿谷紀郎が所属している東京コンサーツと同じマネジメント会社である、という理解になるのだろうか。(ひょっとすると、こうした放送関係の音楽家の手配をする仕事からスタートして、いつしか放送局に出入りする作曲家のマネジメントを請け負うようになったということなのだろうか。)

東京コンサーツという会社も、武満徹の評伝では個人の顔が見えない。

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顔が見えない、といえば、20世紀音楽研究所が1961年に大阪でやった第4回現代音楽祭で、ジョン・ケージ「オーケストラのためのコンサート」に参加したメンバーがどういう人たちだったかということも、プログラムには「現代音楽祭管弦楽団」とあるだけで、よくわからない。(指揮は黛敏郎、ピアノは一柳慧と記されているが。)

作曲家たちが「コンテンポラリー」な「前衛」の「スターダム」にのしあがっていく過程を支えた黒子たちの仕事ぶりを具体的に知りたい。

作曲家のプロモーションやマネジメントを会社組織で行う、というのは、国内では東京にしかない仕組みだと思う。(そういえば佐村河内騒動でも、彼をマネジメント&プロモートする事務所があったんですよね?)関西にいると、何がどうなっているのか、よくわからないので教えて欲しい。