武満徹の謎めいた発言や前衛的な技法の数々は、「インターナショナル」で「コンテンポラリー」な「音楽の国」のパスポートを売るためにフランス系の衣装を身にまとった、ということで、そのなかでは「オーケストラのペダルを踏む」手法が一番成功した(メシアンにも誉められた)。20世紀音楽史に武満徹の場所があるとしたら、あのサウンドだろうという気がする。その後、日本の作曲家が国際的な場に出るときには、みんな、あのサウンドを踏まえた音を作っているのだから、道を付けた、ということになるのかもしれない。(評伝をまとめた小野光子も、結局、あのサウンドが好きなんだと思う。)
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一方、日本洋楽史の文脈では、レクイエム・追悼という喪失の主題の出発点になった早坂文雄の働き盛りでの死をずっと引きずっていたのかなあ、と思う。パントナリティの響きとか、日本旋法を抽象化した sea の主題とか、というのは早坂文雄の音楽上の後継という気がするし、ちょうどそういう形で早坂文雄から託されたと感じていたであろう課題に目処がついたところで、黒澤明と「乱」で対決したわけですね。
(「明日ハ晴レカナ……」が黒澤組の打ち上げの席で披露した歌がもとになっているのは知らなかった。この歌、いいですよね。)
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「オーケストラのペダルを踏むサウンド」が武満徹の現在、早坂文雄への義理が武満徹と過去とのつながりだとしたら、オペラは到来しなかった武満徹の未來ということになるかと思う。
ビジネスとしての準備作業は何度も仕切り直ししながら少しずつ動いていたらしいですが、当人に本気でオペラに踏み出す気があったのか、はっきりしない話だなあとずっと思っていたのだけれど、オーケストラ歌曲で英語の詩に作曲したり、ナレーションの入る曲(音楽物語ですよね)を書いたのは、オペラを書くとしたらそういう経験を積んでおく必要があると考えていたのかもしれないわけですね。そういう見取り図を想定すると、晩年90年代の、正直言ってかなりダサい作品群に、俄然興味が湧いてきました。
「生前の故人の思い出を語り継ぐ」というモードから武満徹を奪い返そうとするのであれば、周囲があまり本気にしていなかったように思えてならない「オペラへの道」を手がかりにして、あのダサさにこそ21世紀への可能性が開かれている、という立論で、全部ぐるっとひっくり返すことが、ひょっとするとできるのではないかと思う。
タケミツほどダサい男はいなくて、そのダサさがにじみ出ているオペラへの思いこそが、死んだ男の可能性の中心なのだ、と言ってみたい。そのような立場から振り返ると、「若い日本の会」での石原慎太郎との共闘から日生劇場設立へ、という流れが、新たな意味を帯びるのではないか。
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てはじめにこれを読んでみよう。