「○年やったら諦めろ」の件

当初想定していた長期戦のための兵糧が尽きて、続けるための支えがないのに意地で続けるくらいなら、作戦を考え直した方がいい、ということじゃないのかな。5年でも10年でも30年でも、トライし続ける体力・生活基盤があるんだったら続けたらいいし、なければ、止めるしかないよね。

「おれは○○年諦めなかったから今日がある。お前も頑張れ」

は、どうしてそんなに長い間トライし続けることができたのか、まずは、その間の経済・生活基盤を教えて欲しい。そうじゃないと、ブラックで無責任なアドバイスだ。

たとえば、私は10年近く大栗裕、関西の洋楽と言っているが、これで生活しているわけじゃない。でも、万人にとって無償無害なホビーでしかないことなのだったら、大栗裕や関西の洋楽についてしつこく調べたりはしないと思う。

調査・研究は、課題・問題を設定して、それを解決する営みなのだから、問題が解消したら、何年目とかとは関係なく、その調査・研究は終わるよね。そしてあまりにも解決までに時間がかかるのは、それが難題である場合もあるが、残念ながら調査・研究の当事者にその課題を解くための技術・能力が不足しているがゆえの遅延であるケースもあるだろうし、解決不能の疑似問題に挑んでしまっている場合も少なくないように思う。「知的な高揚」(内田樹)は、調査・研究を駆動する力になるが、無謀な挑戦や疑似問題を延命させてしまう場合がありうる。

近代社会は、世の中のほぼあらゆる事柄を市場経済の原則に合うように変換・書き換え・組み替える方向で進んだと言えるのだろうし、20世紀を席巻した労働者一党独裁の共産主義プロジェクトも、サステイナブルではないその一変種だったということで決着しつつあるように見える。

文化と呼ばれる領域は、市場経済の教科書的な原則ではうまく運用できそうにない事柄を押し込める場所であるかのような感じがあって、だから、市場経済を敵視するタイプの言論がここから繰り返し発生しているけれど、市場経済には「教科書的」ではない手練手管(必ずしも「不正義」とは言い切れないような)が色々あるようで、文化は経済と対立する、という単純な構図ではなかろうと思う。

東浩紀が、自己資金で自らがオーナー社長になって会社を経営して、自社で発行する書物のなかで「ポストモダニズムの徹底にしか活路はない」と宣言するのは、「悪い場所」に押し込められてしまっている文化の諸相を、こうすれば、もっとエレガントに市場経済に接合できるはずだ、と遂行的に提言しているんだろうし、おおむね、そういうことになっていくんじゃないですかね。

○○年やって、諦めるか諦めないか、というのも、そういう文脈で考えるのがいいんじゃないのかな。