受肉の作法

メシアンのアッシジはイエスの受苦を真の奇跡と位置づけるカトリックの信仰があって、色彩や鳥や愛は、ムシカという観念・抽象の受肉を実践したんだなとわかってくる。

三輪真弘のモノオペラの長ゼリフは、ほぼムシカの観念を語っていて、やはりこの人も池内フランス派に制圧された時代の東京芸大を背負っているんだなあ、と思わざるを得ないわけだが、

14歳の天才、という少年ジャンプ的、サブカル的な主人公の声のリアルタイムのフォルマント解析によるポリフォニーは、現代のムシカというべき計算機情報の神(コンピュータを神と崇めるのはあまりにもスペースオデッセイ的、60年代SF的な意識高い系エリートおじさんの発想と思えなくもないけれど)の受肉と言えるのだろうか。これは、メシアン的受肉への対案なのか、それとも受肉の不可能性の告発、シニカルな断念なのか。

個人様式の完成形ではあるとは思うが、アクチュアルかと言われると、むしろ2017年の舞台としては、アナクロになりかけているような気がしました。

あるいは、アナクロニズムのアクチュアリティ、という池内/メシアンへの道(回帰)、だったりするのだろうか。

(この話はもう少し続きます。また時間ができたときに。)