テレビ試聴を大衆音楽研究の観測定点とみなしていいのか?

今日の同志社女子大での演歌研究シンポジウムは、登壇者4人のうちの3人がまるでしめしあわせたかのようにテレビ番組への言及を話の枕に使ったのが気になった。そして休憩後の討論は、研究者コミュニティの議論というより、まるで、往年の朝ナマや少し前に何度かNHKでやっていたニッポンのジレンマみたいだった。

「演歌は日本の心の歌である」という物言いが有効であった時期は1970年頃から2010年頃までにかぎられる、というのが演歌研究の定説になりそうな気配だが、これは、テレビがほぼすべての家庭にゆきわたたってから地上波アナログ放送が停止するまでのテレビ全盛期と重なる。

1970〜2010年というのは、輪島祐介や増田聡がこの世に誕生してから、彼らが大学教員として定職を得て、子供ができてマイホームを確立するまでの期間でもあり、カラオケが発明されてから手軽な娯楽として世代を超えて愛好された時期とも重なるように思うので、どの因子が有意に相関しているのか、もっと慎重にチェックしないといけないかもしれないけれど、

とりあえず、このシンポジウムの枠内で言えることとしては、登壇者たちが(カラオケ教室とカラオケ喫茶をフィールドワークしている方を除いて)、「テレビは社会を映す鏡である(あった)」という神話に安易に依存しすぎていると思いました。

(1) 著者自らが(演歌をめぐる)「言説研究」であったと位置づける輪島祐介の演歌論が台湾や北米のアンダーグランドなアクティヴィストの手で聖典風に翻訳されつつあるらしいこと

(あの著作を今日の登壇者たちは「輪島著」「輪島著」と何度も言っていたが、「輪島著は……」などという奇妙な日本語をいったいいつから人前で口にしていいことになったのだろうか?)

(2) 1950年代の映画における美空ひばりは、1970年代以後のテレビにおける扱われ方とは違った姿をしているということ

(とはいえ、股旅ものの台詞回しは周囲のプロの役者たちと比べると随分へたくそだし、斎藤さんが、殺陣というこのジャンルを語るのに最適だと思われる用語をどうして使わなかったのか、理由がよくわかりませんでしたが……。みせていただいた映像は、美空ひばりの個人としての身体能力の特異性を示すというより、時代劇映画という美空ひばりの登場よりずっと前から続いているジャンルに歌い手さんが素人芝居としてゲスト出演したようにしか見えなかったので……。それにああいうお芝居は、その後の演歌歌手の皆さんも踏襲していますよね。今ではNHKで五木ひろしもやっているし。

一方、台所で歌い出すのは、トーキー初期以来のミュージカル映画/歌もの映画の系譜のなかに置くと、また違った意味を見いだしうるように思いました。)

(3) 演歌がカラオケ教室カラオケ喫茶で団塊世代高齢者の serious leisure (←日本の色々なジャンルに観察できる「習い事」を形容するとても便利な言葉を教えてもらった!)になっているということ

(うちの団地でも、私が午後の授業から出講するときに乗る10時代11時代のバスは、何らかの serious leasure に「ご出勤」されると思しき高齢者の方々で席が埋まっています。ただそれにしても、高度成長期には存在していなかったカラオケが高度成長期へのノスタルジーのトリガーになっているとしたら、どのようなプロセスでこうなったのか、そこが一番知りたかった。)

登壇者の方々が提供してくださったトピックは、紙の出版物(=上記(1))や映画(=上記(2))やカラオケ・喫茶(上記(3))というテレビとは別のメディアたちが、とりあえずある時期に「演歌」と呼ばれるようになった歌謡をテレビとは別様に扱っている、ということではないかと思いました。

そして最後の増田さんのプレゼンは、かつて「演歌」と呼ばれていたものを今もまだ「演歌」でありつづけているかのように取り扱おうとするのであれば、もう、テレビ番組に関するネット情報(ウィキペディアとか)のコピペや切り貼りで用が足りてしまう、ということだと思う。

シンポジウムが着地点を見失ったのは、テレビによって流布された表象に囚われていたら話が先に進まないのに、誰もテレビを消そうとしない中毒症状に見えました。

今はもう、特定世代の大衆文化研究者以外はそこまでテレビに固執していないし、夜のヒットスタジオであれ紅白歌合戦であれ、現存するテレビ映像をコンプする、という種類のマニアックで自己言及的な行為(「失われた20年」用語で言うところの再帰的な自己同一性の模索とかいうやつでしょうか?)を「研究・調査」と呼ぶのは難しい段階に来ているんじゃないか。

(レコードを繰り返し聞いたり、コンサートに連日通ったりするだけでは「西洋音楽研究」にはならないように。)