伝令とPTSD

前回のサスケの場面から、たぶんそういうことだろうと思ってはいましたが、関ヶ原を活劇として画面上で演じないのは、有働さんのナレーションで始まるこの連続ドラマの形式と連動するその論理的な帰結だろうと思う。

いわゆる三統一の原理を愚直に維持しようとすると、2つの方法がある。ひとつは、登場人物が経験した事件だけでドラマを構成することで、小さな出来事であってもその背後に大状況を示唆することができればドラマが成立する。毎回が一日の出来事として完結する「新撰組!」はこのスタイルでしたよね。あれは、三谷幸喜が学生時代からやっていた小劇場ウェルメイド・コメディの延長上の集大成にもなっていた。

三統一を維持するもうひとつのやり方は、舞台上・画面上に描かれない大事件を伝令や経験者の伝聞としてそこに居合わせなかった登場人物(と観客)に語り聞かせることで、今回はこのスタイルなわけだが、形式としては、三統一を言いだしたアリストテレスが詩学で論究したギリシャのディオニュソス祭演劇も、実はこの形ですよね。エディプス王は伝令や証人から何かを伝え聞くごとに追い詰められていくし、オペラのなかのオルフェウスはエウリディーチェの死をその場にいた女友達から聞く。前回の信繁は、単にサスケの話を聞こうとしない者たちを叱ったのではなく、それほど都合よく誰もがその場に居合わせることができるはずもないのに、あたかも世界の主人公になったかのように活劇を求める視聴者を含めたすべての者を叱ったのかもしれない。ドラマは、伝聞・伝令によって発動するのであって、そのようなドラマの基底を忘れて浮かれてはいけない、ということだ。

そして考えてみれば、ギリシャ劇の素材となった「お話 mythos」はドラマとして演じられる以前にエピックとして語り伝えられてきたのだし、真田十勇士の物語は、史実というより講談なのだそうですね。信濃の忍者・山賊まがいの人たちの足跡は、史料としては残りそうになくて、そのように「語り伝えられてきたもの」をドラマにするには、この形式がふさわしい、ということになるのかもしれない。

たぶん、史料によって今ではマニアックなくらい詳細に「知られている」状況を正確に記述すると、この人たちの物語は消えてしまう。でも、だからこそドラマにできる、と作者は踏んだのでしょう。ひょっとすると、語りからドラマが立ち上がる、というのは、テレビというメディアに向いた形式(「テレビ的」)なのかもしれませんね。

しかも、そこで戦争を語り伝える人たちは、ほぼPTSDに苦しんでいるわけですから、辛いですね。

そういえば、私達が子どもの頃に見たドラマでは、しばしば、「戦争の記憶」に耐える年長者が登場したものですが……。

現地に赴く

蓮實重彦は、観たい映画があればどこの街でも映画館に足を運ぶ人だったのだろうと思うし、こういうときには、「大学教授」とか「文芸評論家」とかいう肩書きとは関係なく我々が「アジア人」の類型に収まる人種なのが有利であったりするかもしれない。北米における町山智広もその立場を活かしているよね。

吉田先生は英国やフランスやドイツのゲームセンターに足を運んだのだろうか?

私は日本でもドイツでも、ゲーセンやパチンコ店には、緊急でトイレを借りる以外で入ったことがありません。碁会所は父に連れられてしばらく通ったけれど、雀荘も知らない。だからどう、ということではないけれど。

(そんなことを言いだせば、バッティングセンターというのも外から見たことしかないし。)

自分が知らない場所について教えてくれる人というのは、有り難い存在ですね。

愚鈍と悪態

先述の cp10、下限へのぼうけんだが、初心者がいきなり極限値を求めるのはハードルが高かろうと思い、頭の上の数字が2桁のPを手元に大切に保管することにする。博士(とりわけ凡庸ならざる特異性を優先しがちな悪しき「人文」)に頼らないもうひとつのルートの開拓である。

「博士なる存在はアートを疎外するのではないか」という、凡俗だが根強い疑念が今も世の中にあるわけで、この疑念を腑分けするためには、一度凡庸さを見極めておいたほうがいいのだろうと思ったりもする。

特異性を抽出しているだけでは歴史・社会は見えてこない、というのは、ひょっとすると、社会科学の肝であったりするのかもしれませんね。

Pは色々妙な動きを見せる前、あるいは、ホームポジションに戻ったタイミングが一番つかまえやすいわけだが、いつどのような悪態を示して抵抗するか(最悪の場合には逃げてしまうか)というのは、いくつかのパターンがそれぞれに設定されているように見える(プログラミングされているのだから当然だろうが)。

ハトがこのタイミングでこういう動きをするときは何やっても逃げる、とか、次第にそういうサンプルが集まってくると、なにやら「決まり字」で百人一首をプレイしているような気がしてくる。

cp10が、その種の悪態から無縁な境地として設定されているのだとしたら、それはある種の「美」なのかもしれぬ(笑)。

cp10は、人々を深夜に無断で私有地に侵入する暴挙に駆り立ててしまうことがない(サードパーティ製の強力なレーダーでも、どれがcp10になるのか、たぶん予測できない)という点でも、なかなかよろしいのではなかろうか。第一形態は、概して相貌が好戦的ではなくサイズも小さいので、相棒として座りがいいとも言える。

Bloody shared singularity

漆黒のツルツル(セブンですか?)のCMを見ていると、"most singular design" という言葉が聞こえて、ほう、singular (単独性)にも、more/most や less/least といった比較が成立するのか、宣伝広告というのは言語を拡張するパワーを発揮するのだなあ、と思ったのだが、singular の用例を検索したら、AIの singularity なる最近のバズワード以前に、バラク・オバマが2008年の大統領選勝利演説でこういうことを言ったらしい。

And to all those watching tonight from beyond our shores, from parliaments and palaces to those who are huddled around radios in the forgotten corners of the world, our stories are singular, but our destiny is shared, and a new dawn of American leadership is at hand.

http://www.nytimes.com/2008/11/04/us/politics/04text-obama.html

「我々の物語はそれぞれ単独かもしれない。しかし我々の運命は共有され、アメリカのリーダーシップは、新たな夜明けを手にしたのである。」

singular なもの(いわば「世界にひとつだけの花」たち)が share される、というヴィジョンがオバマ民主党的な2010年のリベラルであり、だから、most singular なデザインは、オバマのように、アメリカ(ニアリーイコール世界)の頂点に立つのですね。なるほどこれは、シンボルがオブジェクトである表象システムの世界性だなあ、という感じがします。クール・ジャパンもこれを目指すべし、というわけだ。

shared singularity とでも言うべきヴィジョンはなるほど強力で、正攻法では反論できそうになくて、自家用ジェットで全米を飛び回るおっさんの暴言の嵐、ゲロゲロ、グチョグチョに清廉潔白を汚す立ち位置くらいしか対抗馬が見つからない。それがポピュリズムである、ということになるのでしょうか。

(SNSで議論や批判的吟味が一方的に dis と決めつけられがちな風潮は、こうしたメリケンな shared singularity に帰依した人たちが、己の立場に異を唱えたり、自身を脅かしたりする現象・存在に、自動的に「やっかみ・嫉妬・ゴミ・下流」等々のネガティヴなレッテルを貼り付ける警備システム、オートマチックな安全装置を導入して、思考停止に陥っているようにも見えますね。)

そういえば、「赤」に対するセンサーの感度を異常なまでに研ぎ澄ました元東大総長さんは、オバマの大統領就任演説を血染めの不吉な言葉たちであると解読していましたが(『随想』)、そんな元総長先生もまた、bloody shared singularity を直接意識したわけではないかもしれないけれど、ゲロゲロ、グチョグチョな言葉を並べた小説を書き、昭和45年にゲロゲロ、グチョグチョにまみれて死んだ小説家の名を冠する賞を得た。

吉田秀和が水戸の館長として死んだり、総長の行き着く先が水戸と縁のあるらしき三島だったり、bloody shared singularity の時代は、異を唱える方も血なまぐさくなるようだ。

shared variety というのは無理なのかなあ。何の理論的な後ろ盾もありませんが、でも、musics を言いうるのであれば、結構いけるんじゃないのかなあ、と思ってしまうのですけれど。

下限を極める

もしかすると、cp10で142種コンプリート、というのこそが、このゲームでは超絶に困難な究極の不可能性への挑戦なのではなかろうか? 進化とハイスコアに背を向けた総天然ロイヤルストレートフラッシュの夢。すべてハイパー1球で Great に仕留めるのが望ましい。運と技の美的調和。21世紀のパチンコにふさわしい何かが浮かび上がるかもしれない。

純愛

「私は、純日本産で、なおかつ万国共通に通用するものに関わりたい。それこそが、そしてそれだけが、男子の一生を捧げるに値する私のピーチ姫なのである。」

こうですか?

ピーチ姫「きもちわるい」

(音楽は既にお姫様候補から落選している。浮世絵様をご神体に奉る彼らは、今ビデオゲームに期待を賭けているようだが、果たして彼女は純国産なのか。身体検査の結果次第では、候補選びが振り出しに戻る可能性がある。男(←ホモ・ルーデンスの♂がこう呼ばれる)とは懲りない生き物である。)

江戸と西洋

広重の大胆とされる構図は、単なるローカルではなく、西洋絵画の遠近法を彼なりに摂取した成果とされているらしいのだが、そういうのは、日本のローカルをグローバリズムと対立させたい人にとっては、見たくない不都合な真実なのだろうか。

三曲合奏(純器楽ではなく唄入りのほうが多い)で琵琶が三味線に置き換わっている日本音楽における近世も、西洋との16世紀の接触の結果だろうというのが有力な説のはずですが。

流れる文字

楽譜の校正作業をしていて気付いたのだが、

accel. とか、pizz. とか、espressivo とか、という風に楽譜に添えられている文字たちは、紙の上に固定されてはいるけれど、楽譜というのは演奏しながら順番に読んでいくので、奏者の視線としては、「流れて」いる。だから、視線にひっかかりを感じさせることなく「流れる」ように、文字の位置や書き方を考えないといけない。

cresc. や f は、その指定が有効な音符との位置関係によってニュアンスが変わるし、con sord. や div. の指定は、その小節にたどりついてから目に入るのでは遅いので、通常、音符より前に書く。

そして、批判版だと注釈を入れる必要が生じたりするわけだが、これも、きちんとした「文」ではなく、「必要であればベルアップせよ」みたいに簡潔な命令口調のほうが、かえって読みやすいようだ。

音楽家は、「流れる文字」と日常的につきあっている職種なのかもしれない。

岩城宏之『楽譜の風景』という本がかつて珍重されたが、あの本にはこういうことは書かれていない。岩城は、鈍感で無遠慮、を強みに変えることができた時代の音楽家だった。中村紘子にも、そういうところがある。まあ、それが音楽の「戦後派」だ。

ゲーム内の時間とゲーム外の時間

Pは定刻に出現するので時報に使えるなあ、と私は思っているのだが、このゲーム内の想定としては、Pがいつ出てくるかはランダムである、ということになっているようだ。つまり、現実世界のいわゆる「物理的時間」(時計的時間)は、ゲーム内の時間(ゲームをプレイしているときにのみ流れると想定される)としてはランダムとみなされる。ゲームを開始してからどれくらい経過するとPが出るのか、「ゲーム内的」な体験としては、この説明もありかもしれない。

(「14:35にPが出現する」という設定は、14:20にゲームを起動した人にとってはプレイ開始15分後であり、14:35に起動した人にとっては、立ち上げたとたんにPの出現、である。)

移動距離をゲームが独自に管理するのも、「ゲーム内の時空」を閉じた世界とみなす想定からすれば、整合的なのかもしれない。時空を現実世界とリンクする想定だと、ゲームを起動していないときでも相棒は「私」と一緒に移動している、という風にもできそうだが、そうはなっていない。

ただし、そうすると、地図だけが現実とリンクしている、というのと話が整合するかどうか、ですね。ゲームを起動したときのみ現実が拡張されて、ゲームを閉じると拡張された現実から抜ける、という理解になるのかな。

ゲーム依存への対策として、こういうのは、どっちの考え方が有効か、という議論があったりするのだろうか。

ゲームを閉じればセカイが消える、というサバけた設定のほうがゲームに依存しにくいのか。(これだと、セカイを去りがたい依存者がゲームを閉じることができなくなりそうではあるけれど。)

逆に、ゲーム内の時空とゲーム外の時空がリンクしているほうが、ゲーム外と調和的なのか。(ゲーム内の存在がゲーム外に進出しそうな懸念はあるけれど。そして、Pが喧伝されたリリース当初は、AR というから、てっきりこっちの手法だと思われて、それで是非が議論になったりしたんだと思うのだけれど、案外、制作者サイドは、こっちの方向性には慎重であるようだ。)

なるほどこれは、「音楽的時間」「演劇的時間」をめぐる議論とちょっとだけ似たところがあるかもしれませんね。音楽の時空を音楽外に開くのか、作品として音楽の時空が閉じるのか。閉じたうえで、部分的に外部とリンクさせるのか等々。

戦法としての多様性と効果としての多様性

近所の競技場に、いまは全部、龍の第三形態が君臨している。そろそろ飽和して皆さんたどりつくところへたどりついてしまったのかな、という感じがしますが、P は、おそらく、相互の得手不得手を相殺し合う多元的なジャンケンのように設計されているんですよね。だからおそらく、競技モードに入ったときには、何をどう組み合わせるのか、という作戦が要るんだろうと思う。で、競技(アレア)としては、チェスや将棋に似た何かになっていくのだろうと思う。

ヴァラエティに富んだ要素を自由に組み合わせる、というのは嫌いではないのだけれど(むしろ音楽や物語であれば、そういう傾向のものが大好物なのだけれど)、チェスや将棋はどうしても馴染めないんですよね。

他人の好き嫌いなど説明されても無意味だろうとは思いますが、どうやら、「勝つ」という単一の目的に向けて多様性を整流する、というのが、私にはダメなのかもしれない。

音楽をゲームと呼びうるのかどうか、よくわからないけれど、多様性を肯定できてしまうあたりが、音楽というのは、なかなかよくできているように思う。多様性の擁護へ向かわない音楽も、もちろん有りうるわけだが。