左翼ごっこ

(帰宅したら書く。→書いた。なお、これは一般論ではなく、そういう風に「よそおう」人がいて、人を惑わすね、というだけの話に過ぎません。でも、人には人の事情がある……のだそうです。まあ、そうでしょう。とはいえ、個々人の事情や思想と、具体的な行動を促す提案を区別するのは、イデオロギーと政治の区別ではあっても、これを「相対主義」と混同するのはダメよ。事情は事情として、これをどうするか、今は何もしないのか、というのは、主義とは別の判断として、立てることが可能(なはず)ですもんね。)

要するに、誰が提案したことであろうと、提案の内容が妥当と認められたら、その提案は実行される。気に入らない奴には一切何もさせない、その人間を徹底的に封じ込める、というのはデモクラシーではない。

というのが一点。

で、そもそもどうやら、「この提案をしたのはこんな奴だ」と暴いて指さす作業にご執心なのは、正義感とかではなく、とりあえず自分ではない誰かに注意を逸らしたいので、一番手っ取り早いターゲットは何かと探したらそいつだった、というような事情があるらしい。

幼稚なトリックだが、結構みんな、これにひっかかるようだ。ひっかかるほうもヒマ人だからお互い様、という、かなりお寒い環境が背景にあるのだろう。

つまり、イデオロギーの言葉を語っているけれど、その裏側に思想があるわけではなく、単に逃げるための時間かせぎだったりするようだ。

それなりの肩書きをもっていても、やっていることは、大きく見積もってもただの扇動・煽り。

……はてさて、今度は(も)うまく逃げることができたのかな?

次から次へと手品が出てきて、なんだか、あらゆる手段を講じて正体をつかまませないことが自己目的化・人生の目標化しているようにも見えるけど、それは、何のゲームなのだろう。永久革命とは違うなのかであるようだが。(←とか、最後に何かをほのめかすと、ここぞとばかりに、これを手がかりにして次の手品を考えるわけだから、永久に続くしりとりゲームか。)

[20数年観察して、ようやく生態を言葉にする手がかりをつかんだような気がする。わかってみれば、昭和の小説とかに、こういう人物がときどき出てくるような……。早稲田系というかマスコミ系というか。まあ、阪大文学部は入試問題からして私学っぽかったもんね。国公立のなかの在野、みたいな。]

強い力と弱い力 ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く (幻冬舎新書)

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素粒子論にこれだけいろいろ登場するのだから、人間の生態が多種多様であっても不思議ではないか。

方便

地位が人を作る、とか、「学位はとりあえず今できるところまでやって出しなさい、本当の研究はそれからです」とかいうのは、やはり、その場しのぎのダメな方便、実現可能性の極めて低い虚言だったな、と実感する今日この頃。

書く、と、考える

「美しい日本語」で書けないことは一切考えない、と割りきるのは、ゲームとしてならありうるのかもしれないが(古語による和歌とか)、通常、漢文脈や欧文翻訳などで拡張された領域なしに、まともに物を考えられるとは、私(←主語!ではないが)には思えない。

書く、と、考える、を混同すると、話が錯綜するのではないか?

受益者?

「教育を受ける権利」を行使している個体を受益者と呼ぶことのほうが私には違和感がある。

そして子どもに教育を受けさせる義務があるのは「国」ではなく「親」だ。

「国」は親たちの義務、子どもたちの権利の遂行を円滑ならしめる環境を整えているに過ぎないはず。

こういう関係性のなかで、「国」が何をどこまでなしうるか、言葉で説明して、ささやかな希望を述べてはいけない理由がわからん。

親の側に「義務」を負う戸惑いと混乱があるのだろう。最近の学校では、親を善く導くのが大変らしいと噂には聞くが、こういうことが起きるわけか。

(「かまってちゃん」体質の人が親になると、ひとまず無限に思い付いたことを先生とかに言い続けるんだろうな。)

それは藪蛇

今日は、バスが狭い道の悪質な違法駐車に立ち往生して大変だったが、

公道は法令で使い方が定められている。(つまり「国民」が使い方を申し合わせて合意している。)そして学校には、おまわりさんが交通ルールを教えに来る。教科書以上に「大切にしよう」は明白だと思う。