カプースチン

というウクライナ出身でモスクワ在住のジャズ・ピアニストの作品を最近続けて何度か聴く機会があった。

ウクライナ出身でモスクワ在住で、なおかつジャズ・ピアニスト、というのが、いったいどういうことなのか興味をそそられる人生だが、色々腑に落ちないところがあるので自作自演の録音を聴いてみたら、アムランや辻井伸行とは全然違う演奏スタイルで、なんだ、そういうことかと思った。

ジョン・フィールドやアドルフ・ヘンゼルトからアントン・ルビンステインを経てラフマニノフやスクリャービンがいて、ソ連時代にアスリート風に筋肉増強された人材が出てきて……というクラシック音楽系のロシアン・スクールとは、ほぼ全く無関係なところで、ロシア・アヴァンギャルド風のメカニック(若い頃に映画館で鍛えたショスタコーヴィチの自作自演がそうであるような)とモダン・ジャズが合体しているんですね。

アムランやその他の人たちが弾くと、音色が暗くて、スラヴの哀愁を帯びたヴィルトゥオーソ音楽の亜流に聞こえるけれど、カプースチン自身の演奏は、明るく都会的で、むしろポップだ。タッチが全然違うし、ビートが効いて、ペダルでモワっと響きを混ぜ合わせたりしない。

ということは、ガーシュウィンやバーンスタインの東欧クレズマー系のシンフォニック・ジャズとも違う。

ピアソラをクレーメルが弾くと全然違う音楽になってしまったのが思い起こされる。

クレズマー系のシンフォニック・ジャズは、20世紀の商業音楽が19世紀の音楽の遺産をきっちり継承していることを告げていて、「短い20世紀」のことを忘れてしまいたい、できればなかったことにしたいと思っているのかもしれない修正主義者におあつらえ向きの事例だが、カプースチンは、むしろ、ドラスティックに19世紀を切断した新天地に店を開いた感じがする。

クラシック(もしくはそれ由来のcommon practice)とジャズの出会いも一枚岩ではない。

小言を言う音楽評論家

吉田秀和が「日本人音楽家の運命」(タイトルを間違えて覚えていたので、過去の記事に遡ってすべて直した)を芸術新潮に連載したのは1965年、東京オリンピックの翌年だったんだな、ということを改めて考える。

友人の柴田南雄や小倉朗に煽られるようにバルトークなどを一生懸命勉強して、実際にヨーロッパに行って『音楽紀行』を書き、現代音楽祭の立ち上げに裏方として参加したのに、これが軌道に乗り始めると、「日本とその文明について」という話をしはじめる、という不思議な動き方をしたのが思い起こされる。

日本の洋楽の状態が良くなるようにあれこれ世話を焼くのだけれど、周囲が増長して勘違い気味に調子に乗りだすと、「お前さん、日本はそんなに立派なわけじゃないでしょう、無理をしているんじゃないですか」と水を差す側に回る、という風に見える。

思えば、そろそろバブルへの助走かという頃、ホロヴィッツを「ひびの入った骨董品」と形容したのも、ホロヴィッツに対する批判というより、ひび割れと知りつつ、その最高級品をとんでもない値段で購入してありがたがる日本人に対するコメントですよね。

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かつての吉田秀和のように、日本の洋楽の状態が良くなるようにあれこれ世話を焼く人は今もいると思うし、かつての吉田秀和のようにクラシック音楽を高級ブランド品にふさわしく語り、啓蒙・宣伝する人は今もいる。音楽のことを今の読者に伝わるように上手に講釈したり、ほとんど文体模写だろうというくらい上手に吉田秀和風な「聴き方/書き方」を実践する人もいる。

でも、こういう小言が人目につくところに出ることはなくなったなあ、と思う。

音楽ジャーナリズムだけじゃないかもしれないけれど、糸の切れた風船のようにフワフワした言葉が飛び交うのは、小言が流通しないからなのかもしれませんね。

それは「芸術の祭典」ではない

芸術新潮は1970年の大阪万博期間中にどういう誌面を作ったのか、興味津々で読み進めたのだが、案外、拍子抜けの印象だった。1968~69年の段階では、どうなることかと緊張している感じに、かなり大きな事前特集が複数回組まれたのだが、蓋を開けてみれば、我々が動くほどのものではない、ということになったのかもしれない。芸術新潮名物の「ぴ・い・ぷ・る」欄で、私のイチオシはこれだ、みたいなお題が出されて、江藤淳以下、各界の著名人のコメントを取っているのが、ちょっと面白い遊び方だなあ、と思える程度だった。

事前に様々な情報が出たけれど、結局のところ、この万博は「芸術の祭典」ではなかった、ということでしょうか。たしかに、それはそうかもしれませんし……。

71、72年は、公害、沖縄というトピックが出るようになって、世の中の雰囲気が変わってきたんだな、ということはわかるけれど、雑誌としての盛り上がりには欠ける。「芸術」というアングルでのジャーナリズムが難しい時代に入りつつあるのかなあ、という感じがある。

音楽関係の記事が、もっぱら洋楽の「演奏」と「録音」の話題になっていく傾向は1960年代後半からのことだが、ますます顕著になりつつあるようだ。オーディオ器機や新譜レコードの広告は華やかに増えているけれど……。

フィクションの読み方

その広告を作ったのは広告代理店なのだから、さしあたり、追い込まれているのは「文学」ではなく、文学の広告を受注して文言をひねり出さねばならない羽目に陥った広告代理店である、と見るのが自然だろう。

テクストを読むことで得られる表象が、その表象によって指し示されている現実世界の存在たちに紐付けられるとは限らない、というところから、フィクションをめぐる議論がはじまっているらしいではないか。

私はフィクションの増殖を好まないが、現にフィクションが流布してしまっているのであれば、フィクションをフィクションとして取り扱うことにやぶさかではない。

その広告がフィクションであることを否認するかのように、「文学」が追い込まれている、と言明するよりも、追い込まれているのは広告代理店だろう、と言明するほうが、よほどフィクションという仕掛けに好意的、ということになる気がするのだが、私は何か間違ったことを言っているだろうか。

フィクショナルなテクストが介在した状態では、はたして「文学」が今どのようになっているのか、さっぱりわからない、というのが、冷静な判断ではなかろうか。

あらゆる不具合は安倍政権のせいだ、とする政治運動に似て、「文学」の周辺に巻き起こる失態はすべて「文学」が悪いのだ、という風に、自分の嫌いなものを貶める政治活動をやる、というのであれば、話は別だが。

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これは、広告のマジックサークルを否認する議論ではないし、私はあなたと知力を競うゲームに興じる気はありません。あるものをないと言い張っているのは、あなたの方ではないか、と問題提起するカウンターアクションです。

あなた、とは誰のことなのか、フィクションにふさわしく、指示対象は不明だが。

イベント駆動の現状

現行のコンピュータのプログラミングは、外部からの入力・出力が独特の設計になっていて、数学的に閉じたアルゴリズムとして記述することができない。

たぶんこれは、ゲームの「開始」と「終了」が、出入力という形で、ゲームに常時埋め込まれている、ということなんじゃないかなあ、と思ったりする。

出入力が特別な取り扱いを要するというのはAIでも同様で、先のアルファ碁と人間の対局もそうだっただろうと思うのだが、オペレータが相手の着手を見て、そのデータをAIに入力する作業と、AIの出力を見てオペレータが盤上に石を置く作業は、対局者の持ち時間にカウントされない。

これはつまり、先のGoogleのプロモーションにおいてすら、AIと人間は、直接ガチに対局したわけではなく、将来ガチに対局したらどういう風になるかということを知るための実験として、AIの思考ルーチンと人間を対戦させた、ということだと思う。そしてその場合のルールは、出入力を持ち時間から除外するという形で、AI側に大きな「コミ」が与えられ、連日の対局を敢行して人間の疲労への配慮はなされないという形で、さらに人間側が不利な条件になっていたわけだ。

ことほどさように、出入力という特別設計を、あたかもないことのように扱うと、コンピュータやAIをめぐる議論は奇妙に歪む。

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渡辺裕の音楽機械論は、楽器が機械・道具であることを「うっかり忘れがちな」人々にそのことを思い出してもらう、というスタンスだった。

コンピュータの出入力の話をしないのは、うっかり忘れて盛り上がり、あとでそれを思い出すところでさらに一儲けするための不作為の伏線、うっかりベースのマッチポンプなのだろうか。

全称命題の怪

すべての、というのは、アイデンティティポリティクスを拡大解釈しすぎだろう。Aは〜である、と断定する行為はすべて政治である、ということになって、もはや命題が機能しない。

そうやって目眩しで相手を呆れさせてその隙に、というのは、いつもの内田派の流儀だが。

[追記]

あと、個体の行動を制御する力はすべて政治であるかのように思いなすのも、おかしい。

当該事案を語るのに、そんな最終兵器は要らない。

何やら、調子に乗って全称命題の連発で事態を切り抜けようとしているようだが。