竹馬の友、という言葉があるけれど、フラテルニテは合従連衡を排除しないのではなかろうか。友(情)というものは、失ったり、組み変わったりしてナンボである、と。ロマン主義活劇はもちろんのこと、ドイツ啓蒙劇も、ドラマである以上、そういう風になっているのではなかろうか。(走れメロスも、シラーが依拠した元ネタまで遡れば、いわゆる友情とは違う何かを示唆しているようだし……。)
オタクと放送
「遊戯と教育」の続き。
- 放送歌謡(ラジオ歌謡) vs レコード歌謡
- 教育映像 vs 娯楽映像
という対比に「親米グローバリズム」と「なんとなくリベラルな愛国」の対立(対比?)を重ねることができないかなあ、と思いついたのだが、そのような図式の来歴を考えるのは面倒かもしれない。
ただ、現状の表面的な観測として、戦前の放送歌謡(軍歌愛国歌的なものも含まれる)や戦後の放送コンテンツをレコード歌謡・娯楽映像と同じ作法でデータベース消費するのは、そこに存在したはずの教育機能を隠蔽もしくは否認するオタク的想像力の末期症状、ゼロ年代的なものの断末魔なんだろうなあ、という感じはある。
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あと、オタク少年がどうして視覚文化論・聴覚文化論のアーティスティックな見巧者・研究者に「転向」できてしまうのか、ということを考えるときに、昭和期であれば放送(テレビ東京で映画に目覚めた町山とか)、平成期であればビデオゲーム(東大美学界隈の視聴覚文化論はひょっとするとこれではないか)が、対立しているかのように見えるものをつなぐライフラインとして機能したところがありそうに思う。
東大教養部・表象文化論的な高等遊民の文化資本の高さに馴染めない学歴エリートのための「胸アツ」系オルタナティブだ。
実存のかかったライフラインだからこそ、文化の「教育機能」を語りがたいのではないか。もうおおっぴらに語ったほうがいいと思うのだけれど。
【重要・要ご返信】日本音楽学会第67回全国大会研究発表要旨送付のお願い
という大仰なSubjectで、内容も妙に厳重にレギュレーションを設定したメールが『音楽学』編集委員会事務局から届いた。
全国大会発表要旨(既に大会事務局に送っている)を編集委員会に出せ、というのだが、これって縦割り組織の非効率(を末端・下流の個人に押しつけている事例)の典型ではないだろうか?
『音楽学』編集委員会事務局なる名義で発行される執筆者への伝達事項は、ことほどさようになぜか「指令」の形式であり、編集委員会の先生たちもそのことに気付いていない、という事案が多すぎる。
旧態依然の音楽之友社との結合を切ることも視野に入れて、学会誌をはじめとする紙の発行物は、情報の一元管理(一度作ったドキュメントを再利用するフロー)でさっさと電子出版に移行したほうがいいのではないか。
紙に印刷することを過剰に権威付ける傾向といい、命令口調といい、どこの古くさいお役所か、という感じがする。
強さと相貌
お膳立てされた流れに身を任せていると、どうしても相貌の悪い者が上位を占めてしまう。世間がそのようになるのは仕方がないかもしれないが、せめて我が身の回りだけでもこの状況を変えたいと思えば、おそらく正攻法は、相貌が好ましい者が実力で上回り、抜き去るように仕向けることだろう。そうと決まれば行動あるのみ。候補を10名選んで、しかるべく育てるべし。
リアルな何かの話ではなく、拡張現実のPの話である。
ピカチュウを肩に乗せて、集めたアメで第二形態を限界まで引き上げたいのだが、これは、このゲームの最後の楽しみにとっておく。