あなたたちは「協賛」と「後援」の使い分けを知らないの? - 美学者の「籠池」的発想を憂う

吉田寛 Hiroshi YOSHIDA‏ @H_YOSHIDA_1973 14時間
責任者出てこいレベルだな、これ。
matsunaga s:3D @zmzizm
あとは言っちゃいますが、加速のときに某B学会に協賛お願いしたら断られたみたいなのがあって、それで逆にやる気でたのはありますね

コンサートのチラシには「主催」「共催」「助成」「協賛」「後援」という文字がずらりと並ぶが、これらの言葉は、通常、イベントの運営と具体的に紐付けて使い分けられる。

主催・共催は自明だろう。助成も、補助金・競争的資金を取るのが日常な研究者なら意味はわかるよね。

「協賛」には、通常、物的・金銭的な支援を受けた団体等がクレジットされる。コンサートのために、楽器会社がホールにあるピアノとは別に自社の新製品をプロモーション目的で用立てた、とか、会場となる音楽ホールが公演に何らかの意義を認めて会場経費の割引等の便宜を図ってくれた、とかいう場合だ。

所属機関(大学とか)や所属する学会、任意団体、同窓会等から、当該事業が団体のメンバーにふさわしい活動であることを認められた、という場合は、「協賛」ではなく「後援」のクレジットを使う。そして学会や任意団体(ワーグナー協会とか)は、会員の「後援依頼」を取り扱う基準や手続きを整備していることが多い。

「協賛」と「後援」の使い分けは、イベントのマネジメントの実務において、「既に常識」と言っても差し支えないかと思います。(「音楽学のメディア論的基礎」などという一部研究者のマニアックな話題よりも、はるかに、常識化の度合いが高いです。イベントに許認可や助成申請等が絡む場合には、言葉を正確に使って書類を作らなければいけませんから。)

森くんは、美学会に「後援」ではなく「協賛」を求めたのだろうか? 物的・金銭的な支援もなしに、任意団体が「協賛」のクレジットを振り出すことは通常ないと思う。どうして、「後援」ではなく「協賛」にこだわったのだろう?

また、こうした「協賛」と「後援」の使い分けは、一般人にはあまり知られていないかもしれないけれど、吉田寛先生の周囲でいえば、生活をともにしていらっしゃるパートナーさんは大阪音楽大学楽理科をご卒業なのですから、一度や二度はコンサートにかかわったことがおありでしょう。おそらく、こうした言葉の使い分けをご存じかと思うのですが……。

自分のプロモーション活動でそれらしい名前ををちらつかせて物事を有利に運ぼうとするのは、やり口が今話題の籠池と同質だと私には思えるのですが、違いますか。

協賛・後援といった語彙は、そのような「脅し」としての用途を抑止するために、明快に使われなければなりません。実際の運営と紐付けて、常識的な用法を心がけるべきです。

学会がそういう社会常識を知らない人を無制限に支援してしまうと、むしろ社会に迷惑をかけて危険だと思います。

大学生の子供だましな言葉遊びがそのまま通用するほど世間は甘くない。東大生は、世間を巧みにあやつっているつもりで世間に利用されている。parallax view のトリックといっても、実体はそれだけのことではないでしょうか。

写真と音楽学といわゆる「遠近法的倒錯」のこと

楽譜の筆跡やインクの色に着目した「科学的」な楽譜校訂であるとか、そもそも、音楽文化における記譜・楽譜の意義であるとか、という議論も、対象は中世以来の写本等まで遡るけれど、おそらく「写真以後」の発想だろうから、音楽学は、録音技術や異文化との接触(ただし後者は20世紀の現象と言うより十字軍や大航海時代やもっと前からずっと続く「長い周期」の歴史現象であり、20世紀だけをクローズアップして論じるのは性急だろう)だけでなく、写真を前提とするメディア現象だと思う。

しかし、そもそも近代音楽学は、芸術学のヒエラルキーのなかで美術史をモデルにして整備された経緯があり、写真からの影響と、写真によって誕生した美術史学からの影響を切り分けるのはやっかいだと思います。140文字で事態を簡潔に言おうとするから議論を単純化したのだろうけれど、音楽学というディシプリンのメディア論的基礎は、「既に常識である」とまでは言えないと思う。

あと、「メディアが知を更新する」というような「遠近法的倒錯」の指摘は、最初の「きづき」におけるインパクトがある反面、「ここにもそれがある」「あそこにもそれがある」という風に、その先の議論が金太郎飴になりやすい。(「言語論的転回」の指摘や、カルスタ・ポスコロの「伝統はすべて近代の産物である」論がそうであるように。)

美術史の誕生における写真の意義を指摘した論考が1989年に出ているそうだが、ここで問われるべきは、おそらく、「なぜ1980年代に人は知に対するメディアの関与を自覚するようになったのか」ということだと思う。

近代が抱える「遠近法的倒錯」を指摘するのが得意なカルスタ、ポスコロ、メディア論は、それ自体が1980年代的な知であることを忘れがちである。そこには、もうひとつの「遠近法的倒錯」の危険があると思います。

ところで、ここまでこの文章では、参照元に従って「遠近法的倒錯」という柄谷行人語を使ってきたが、この言葉は英語でどういう風に言えばいいのでしょうか?

柄谷は、遡行 retrospective によって遠近法 perspective を批判する発想をニーチェに学んだことを臭わせていたかと思いますし、ニーチェの論争的な文体からすれば、こうした主張が「倒錯 perversion」の語と結びついた用例を見つけることができるのかもしれませんが、「遠近法的倒錯」の語は欧米語と対応させづらいように思います。perspective perversion と言っても、たぶん、通じませんよね。

Wikipedia 英語版の Kojin Karatani の項目には、スラヴォイ・ジジェクが柄谷行人から「parallax view」のコンセプトを借りた、との記述がありますが、もしかすると、柄谷の著作の英語版では、日本語の「遠近法的倒錯」の語が「parallax view(錯視ですね)」と訳されているのでしょうか? つまり、日本語圏における評論家柄谷行人はニーチェ風に「倒錯」を語る人だが、英語圏に流通する柄谷行人は、perversion を表に打ち出してはいないことになっている、とか。

「遠近法的倒錯」といういわく付きの概念は、書誌学的にスクリーニングして、別の言い方にパラフレーズしたほうがいいんじゃないだろうか。

大阪の子供はどこにいるのか?

日曜日に新大阪に行く用事があったので、ついでに御堂筋/北大阪急行沿いの公園を回ってみた。

千里まで行くと街の高齢化を実感せざるを得ないのだが(私が住んでいる団地も同じです)、梅田・新大阪からそれほど遠くないあたりは休日の親子連れや中高生がたくさんいて、公園が賑わっている。なるほどこれが、郊外から都市近郊に人が戻っている、と言われる現象なのかと実感できた。地価が投機的に高騰した80年代までの経済状況は、やっぱり異常だったんですね。

母が住む八尾も若い親子が多いそうだ。「少子化」というけれど、それは統計的に均すからそういう数字が出るのであって、十分な数の子供が暮らしている地域とそうでない地域の差が大きくなっているのではないだろうか?


子供がたくさんいる地域の公園や歩道は公共交通機関などの導線もよく整備されていて、「大阪は公共がだらしない民都である」というのも、最近のことをよくわかっていない団塊世代あたりまでのボケ老人の妄言ではないかという気がする。北摂は転勤族が多く、しがらみなくサバけた風に街を設計できるのかもしれないなあ、と思う。

こういう地域が大阪維新の「若さ」を公人に求めたのは、橋本叩きの際に言われたような「マスメディアによる煽り」で片付けることはできないかもしれない。安倍や小池を支持する東京だって、似たような事情があるんじゃないの? 「言説が社会を作る」みたいな枠組に囚われたリベラルには、説明できそうにない事態が、今の都市周辺で起きているような気がします。

そしてやはり、このあたりに来たら淀川河川敷に行かねばならぬ。どうやら、私はこの景色が本当に好きみたいです。今回はJRの鉄橋の下まで歩いてみた。

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(大阪の老人がいつまでも現役にしがみつく気風は、ひょっとするとキタの文化というより、地域の旧家が残る泉州河内の習俗ではないかと、不意に思いついたのだが、これが適切な推測なのか、今はまだまったくわからない。)

大阪のメセナと公共の現在

びわ湖ホールの小菅優リサイタルの批評を京都新聞に、いずみホールのイザベル・ファウスト、ジャン=ギアン・ケラス、アレクサンドル・メルニコフの三重奏の批評を日経新聞大阪版に書きました。2016年度の終わりに、ここ数年の、いずみホールに代表される小中規模ホールが関西楽壇の新時代への希望を託された最後の良心であり台風の目であるかのように勘違いされていた時代を総括する良い機会になったと思っております。

震災による日本全土の歌舞音曲自粛ムードと大阪維新による「文化芸術」イジメ、この国はもはやデフレから未来永劫脱却できないのではないかという不安と焦り、これらに音楽家・聴衆双方の世代交代(団塊世代の表舞台からの引退)が重なって、ここ数年、関西のクラシック業界はもうダメなんじゃないか、少なくとも、オペラやオーケストラは自前でやらなくても外来や東京に任せればいいんじゃないか、リサイタルには、外来であれ地元音楽家であれ、もうお客さんはこないんじゃないか、という停滞感があったように思う。

(ゼロ年代に関西を熱狂させた大植英次は9年で大阪から逃げ出しちゃったし、シンフォニーホールは売りに出されるし、新しいフェスティバルホールはあんまりクラシック音楽をやらないし……。)

いずみホールもウィーン楽友協会との提携を一度止めて、身の丈に合った自主企画を模索して、その代表がモーツァルトとシューベルトの特集であり、同じ時期に、カジモトから小菅優のベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏の大阪公演のマネジメントを引き取った。広報営業面でも、SNSを活用した新しいタイプの広報とオンライン予約をリンクさせて、このホールは、あたかも古い業界に見切りを付けて、新しい可能性に船出するかのようなイメージで突っ走った。

いずみホールがベートーヴェンのソナタ全曲を毎回出演者が交替するリレー形式で10年くらい前にやったときには、ピアノの先生や子供たちが通し券を買って毎回盛況だったのが、今度の小菅優の初回の客席は閑散としていた。ホールの広報担当者がネットの個人アカウントでなりふりかまわず顔と名前をさらして、「優ちゃんをみんなで応援しよう!」キャンペーンを張ったのは、このホールが古い体質を見限って新しい聴衆を開拓しようとする典型的な動きだったように思う。

(そしてこの動きは、偶然なのか意図的なのかわからないが、「朝比奈/大フィルのシンパや音楽クリティッククラブのお爺ちゃんに代表される男性優位の関西クラシック音楽界で、いずみホールは「女性による女性のためのコンサート」を推進します」と旗を振っているかのようにも見えた。世間でさかんに言われた「女子力」で難局を乗り切ろうとしている雰囲気があったわけだ。当時、関西の新聞各社の音楽担当記者もほぼ全員女性だったしね。)

さてしかし、どうやら親会社が元栓を絞ったことが背景にあったらしいこの「危機」が一段落したということなのか、いずみホールはウィーンとの提携を再開するとアナウンスしているし、小菅優は、ベートーヴェンを全曲弾いた実績で立派な中堅になって、ベートーヴェンを他の演目と組み合わせたプログラムでツアーを組み、びわ湖ホールでは、普通に、昔からのピアノ好きのお客さんたちが聴きに来ていた。

「関西クラシック業界の危機」なるものは、様々な偶然が重なってそう見えていただけの一過性の凪だった面が少なからずあるようです。

だとしたら、小菅優のベートーヴェンは、全曲演奏シリーズ進行中に騒がれていたのとは違う態度で、その意義を考え直す必要がある。

当時、いずみホールが仕掛けた騒ぎの渦中にいた大久保賢のような人たちが、そういう「総括」をしないで、そのとき騒いで騒ぎっぱなしであとは知らんぷりを決め込む、などということを私は許さない。

小菅優は本物の音楽家であり、森岡めぐみや大久保賢が対等に口をきくのはおこがましいくらい人間としても音楽家としても器が大きい。にもかかわらず、彼女と彼は、年若い女の子を年長者が導くかのような態度で小菅に接した。(あの人たちは、いつもそういう風に無根拠に態度がでかい。)それは腹立たしく屈辱的な光景でした。小菅がスケールの大きい音楽家であることは、ベートーヴェン・シリーズ初回を聴いた者にはわかっていたにもかかわらず、彼女と彼はそういうことをした。そして小菅の真価は、いまや誰の目にも明らかになりつつある。きっちり落とし前をつけていただきたい。

京都新聞に小菅優リサイタルの評を書いたのは、そういうことです。

いずみホールの自主事業は、ウィーンとの提携という大看板(そもそも建物が楽友協会ホールを模している)を取り去ると、実質的には、80年代以来の商業化した古楽(ピリオド・アプローチとかHIPとか言われるような)と現代音楽が両輪である。80年代から古楽の旗振り役をずっと続けている礒山雅と、ポスト前衛時代の日本の作曲業界で一番元気のいい西村朗の2人がこのホールの音楽面の相談役なのだから、それは何ら不思議なことではないし、見ていればすぐにわかることである。

ただし、停年のある公的機関や企業の役職と違って、こういう仕事はいくつになってもできる。そして今では礒山も西村も還暦を超えている。いずみホールでこの3月までランチタイム・コンサートを続けて今回が最終回となる日下部吉彦は、さらに上の世代だ。朝比奈隆風の古い老人パワーへのアンチであるかのように活動を展開してきたいずみホールが、今では、もうひとつの老人力をもり立てる態勢になりつつあるわけで、フェスティバルホールの大阪フィルの指揮者は尾高忠明、シンフォニーホールの大阪交響楽団には外山雄三、関西フィルには飯守泰次郎がいるわけだから、大阪では、主要民間クラシック音楽団体が、それぞれの老人力を競い合う態勢になりつつある。いずみホールは、むしろ、老人力競争の先端を走っていると見えなくもない。

(大阪の自治体には橋本や松井の若い維新の会がいるので、現在の大阪における「官」と「民」は、強権的なポピュリズムとリベラルの闘いというより、ルールに従って若返りつつある「官」vs自己資金で団塊老人が生きながらえる「民」の構図になりつつある。佐渡裕を擁する兵庫、広上・高関・下野の三羽がらすの京都、沼尻竜典の滋賀と比べたときの大阪の沈んだ感じは、むしろ、「民」の団塊老人たちが原因ではないだろうか。大阪の民間文化を老人が支配する体制は、朝比奈隆の頃も今も、基本的には変わっていないように見える、ということです。)

ここ数年にわかに注目されて頻繁に来日しているイザベル・ファウストは、HIPと現代音楽をごく自然に咀嚼できる知性と技量と真摯な人柄が売りの人だから、いずみホールがシューベルト特集の目玉企画をイザベル・ファウストに託したのは自然の成り行きだろうと思う。ホールを取り仕切る2人の老人のどちらにも気に入られるであろう「養女」が見つかった恰好である。

ところが、彼女に任せたら、ものすごく渋い演目を、びっくりするくらい地味なスタイルでまとめて来たわけである。ロビーでは、休憩中に中年男子たちがまるでネット掲示板かと思うマニアックな話題を熱心に語り合っていたので、広報営業面でも、近年のいずみホールの取り組みが功を奏して、「ネットベースの新しい客層」(平たく言えばクラオタである)をきちんとつかんでいたのだろうと思うけれど、しかし、これでよかったのでしょうか?というのが、この公演についての私の感想です。

批評の中身は読んでいただければわかると思うので、ここでは繰り返さない。

しかし、いずみホール公式ツイッターの「なかの人」と、この公演の解説をプログラムに寄稿した堀朋平には言いたいことがある。

140文字という膨大な文字数があるにもかかわらず、外部著者の署名入りの批評の紹介ツイートで執筆者名を落とす、というのは、どういうことなのでしょうか? もしかすると、「なかの人」は日本語が不自由で、文字を削る力がないのでしょうか?

潤沢なスペースを与えられているにもかかわらず、コンサートのパンフレットの曲目解説にあってしかるべき情報をばっさり落として、自意識過剰で居住性の悪いデナイナーズ・マンションみたいな文章を書いてしまった堀さんともども(3人の作曲家の晩年の三重奏曲、というのが選曲のコンセプトなのだから、各曲の作曲年と、それがその作曲家の生涯のどのような位置にあるのか、ということが、読んですぐにわかるように文章を工夫しないとダメでしょう)、わたくしが715文字(13字×55行というのが日経の毎回の指定文字数です)に多くの情報を盛り込むためにどのような技術を駆使しているか、それくらいのことは読んですぐにわかるくらいになってから出直していただきたい、と私は本気で呆れております。

私の批評は、「メセナをディレッタントのナルシスティックな遊び場にするな、ばかやろう」の精神で書かれております。

いずみホールは、神経過敏すぎるのではないかと思うくらい生真面目なところがあるかと思えば、お客さまから「杜撰」とたしなめられてもしかたがないのではないかと思うくらい緩いところがある。そのチグハグかもしれない二面性が「社風」であり、そこが愛されているのかもしれないけれど、それが事業の足かせになる局面があるとしたら勿体ないことだと思う。

私企業が自社資金で事業を展開しているのだから、そのミッションに他人が異議を唱えても仕方がないし、私はそんなことを言ってはいない。どうぞ自由にやってください。

でも、事業体が公式に掲げたミッションがどのような結果を生んでいるか、実際の運用が円滑かどうか、というのは、公然と外部から見えているし、そのような透明性・公開性を担保するのが公益事業というものだろうから、そこは、第三者による自由な論評の対象となっていいはずですね。

こうして、メセナ事業が「批評」の対象になる。

「批評」は、メセナ事業を行っている財閥系財団と新聞社との企業同士のおつきあいとして紙面に掲載されているわけではないし、だから、主催企業が公式コメントとして発信する文章が主催企業から掲載新聞社への「ありがとうございました」という礼状の文体に収まってしまい、批評を個人の文責で寄稿している外部著者名が欠落するのは、それでいいと思うのもあなたがたの自由ではあるけれど、非礼の疑いがあると思います。一般論として。

大正区の昭和山と大阪の怪物たち

運河に囲まれた大正区は、大正時代に大阪市街地と結ぶ大正橋が敷設されて、この橋にちなんで大正区となったらしい。環状線駅は大正橋のそばで、大阪ドームができたりしてにぎやかだが、区役所は南にあって駅から市営バスが通っている。千島とよばれるそのあたりが、材木置き場や製材所でかつて栄えた島の中心だったようだ。

(中上健次が描いた紀州の木こりたちの切り出した木材が船でここまで運ばれていた、ということだろうか。)

製材業が撤退した跡地に、万博の準備で北へ掘り進めた大阪市営地下鉄工事の土を盛った山があって、1970年当時は標高33mで、大阪一高い「港が見える丘」だったらしい。その後、ごみ焼却場の灰を積み重ねた鶴見緑地の鶴見新山(命名当時は標高45m、現在39m)に高さで抜かれてしまったそうだが……。

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北摂豊中というより大阪の北のはずれ(地下鉄江坂や阪神野田とも近い)の高速の脇で飛行機が真上を飛んでゴミが埋まっている土地の活用方法の是非(国有地なのだからダンピングしてはいかん、というのが国の株主と言うべき納税者感情なのだろうけれど、正価では買い手がつかないから空地だったわけであって……)が連日話題になっているが、大阪は狭い土地に無理に工場を造ったから後始末に苦労している、ということなのでしょうね。大正から昭和にかけては阪神間の私鉄沿線にかつての商都を担った人たちがみんな逃げたし、脱工業化による起死回生の決定打と期待された北摂千里丘陵の開発で、かつての工業地域に山ができた。

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(「地盤沈下」が比喩ではなくリアルな問題としてクローズアップされた昭和後期の大阪では、朝日放送が福島のテレビ塔を自慢したり、わずか33mの標高を大阪一と称したり、これまた比喩ではなくリアルに、「高さ」が熱望されていたのだろう。そうした市街地再開発の末に現在まで生きているのが、地上の自動車と自転車の自由気ままな走向を避けて歩行者が地下に潜るアリの巣のような地下道、地底人の如き縦横無尽な「低さ」(←ポケモンGPSの圏外であるような)の活用なのは皮肉と言うしかありませんが。そして梅田の新地周辺のポケストップが連日満開なのは、モンスターたちが大阪の人類を地下から再び地上へ呼び戻そうとしていると言えなくもないかもしれませんが。)

現在では、1990年の花博で新設された地下鉄鶴見緑地線が、その標高33mの昭和山の大正と標高39mの鶴見緑地を直結している。心斎橋で乗り換えると御堂筋線/北大阪急行で北摂千里ともつながっているのは、偶然なのか、歴史の必然と言うべきなのか。

その千里ニュータウンが高齢化・過疎化しつつあるのは、既に広く知られているところだが、ナイアンティックの開発したアルゴリズム(人間による介入の痕跡は明らかではあるけれど、基本的にはAI的に何かを学習しながらメンテナンス、自己補正を繰り替えしていると思われる)は、ニュータウンというような人類のスローガンを横目に、開発以前からある大きなため池のほとりにモンスターのささやかな巣を作っている。

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ポケモンたちは、普通の観光ガイドには出て来ない大阪の色々な景色を見ているよ。

逆説を弄ぶ者

(承前)あの審査委員が辞めてしまったために賞が取れなかった、という言い分も聞いたことがあります。こちらはあまり同情できる話ではありませんが。

そうですね。「渡辺裕が審査委員であるにもかかわらず、吉田寛はサントリー学芸賞を取れなかった」というような事例を生み出すのが、成熟したゲームというものでしょう。

そして吉田寛先生は、そのような陰影を前提として、「渡辺裕が審査委員であった。“にもかかわらず”サントリー学芸賞を受賞した」のだから、高個体値で皆が喜んで進化させるアイテムなのでしょうね(=ゲーム的リアリズム2.0)。

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びわ湖リングがはじまった

新国立劇場の2001〜2004年のニーベルンクの指輪は、「読み替え」の潮流がゼロ年代のクール・ジャパンと合流するキッチュな舞台で、「トウキョウ・リング」と呼ばれたりしていたが、びわ湖ホールが今年から4年がかりで取り組むことになっている指輪プロジェクトは、その次の段階のフラッグシップになり得るのではなかろうか。

「トウキョウ・リング」でわあわあ賛否両論騒いでいた当時はおじさん、おばさんで今や老人になりつつある人たち(東条とか?)のコメントや、この一年で顕著に知力が衰退・凋落したと言うしかないSNSの「感想」では、今度のラインの黄金が「余計なことをしない台本に忠実な舞台」とか「まるでメトのようにわかりやすい初心者向け」などと片付けられているようだが、大阪難波のコスミックラボのプロジェクション・マッピングを昨年のオランダ人以上に盛大に使った視覚効果が、あたかも「何もしていない」かのように劇場にフィットしているのは、技術者・裏方はもちろん、歌手も指揮者もオーケストラも、今までやったことのないことをものすごくたくさんやっているからこそではないかと思う。

たとえば、冒頭のラインの乙女のシーンで、スクリーンに投影された魚の映像と、舞台上で動く人間(歌手)がどのタイミングでどうやって入れ替わるか、ということひとつとっても、どれだけ色々なことを考えねばならないか、多少なりとも活動領域が残っている生きた脳味噌と、それを働かせる想像力があれば、わかりそうなものであろう。

そもそも、指輪四部作の開幕を飾るラインの黄金の冒頭で、音楽の前に幕が上がって映像だけを見せられて、指揮者が拍手を受けることなく板付きで音楽をはじめる、というのは、どれくらい前例のあることなのでしょうか?(ヨーロッパあたりでは誰かが既にやっているかもしれないが、だとしたら、どの劇場で誰が最初に指輪を板付きではじめたのか、正確な情報が知りたいところだ。少なくとも、国内で指輪を板付きではじめたのは今回が最初だろうし、そのことは、ちゃんと驚かれてしかるべきではなかろうか? 「情報」として次から次へと公演を飛び回っているすれっからしは、驚くべき場面で驚く生きた感性がすり減っているのだろうか?)

そしてこの、ジジババには何も起きていないかのように見えるらしい素敵な舞台は、沼尻竜典がびわ湖ホールの監督に就任して以来、ドイツものに力を入れたり、座付きの若手歌手(声楽アンサンブル)をソリストとして育てるべく尽力したり、コンヴィチュニーが来たら自ら練習指揮者を買って出たり、今のお客さんが何を望んでいるかを探るべく自らオペラを作曲したり、あれこれ手を尽くしたことの集大成でもあると思う。

(2日目をみたが、清水徹太郎がローゲ(←彼こそがこの舞台の主役なんですね)を立派に歌いきったことに感心した。)

ここ数年、東京の関西への嫉妬と、関西の東京コンプレックスがこじれにこじれて、関西では、せっかくいい企画を立ち上げても外野のバカに振り回されたり、力不足で自滅したりして、いつしか不幸な結末に至る例が散見されるが、今回はぶれることなく4部作をやり遂げて欲しいものだ。

それにしても、四部作を続けてみるとなると、改めてワーグナーの楽劇を勉強している気になりますね。ラインの黄金は、美女が誘拐されたり、地底に下ったりして、ギリシャ神話風の設定を北方神話でやろうとする意志がありありとわかるし、上でも書きましたが、ヴォータンが神話上の中心人物ではあるのだけれど、声のドラマとしてはテノールのローゲが主役然と振る舞うズレかたが面白い。(ローゲが登場して長々とレチタティーヴォつきのアリアを歌うところは、ダールハウスが「メロディーの理論と実際」で分析しているけれど、なるほどここは、ドラマが動き出す鍵になる場面なんですね。)

すっきり舞台が整理されているからこそ、ワーグナーを特殊な演目としてではなく、オペラのひとつとしてフラットに考える気になるんだと思う。いわゆるライトモチーフは、仰々しく大言壮語しなくても、舞台が整理されていれば、すっきり理解できる。

とりあえず、ワーグナーにとっては、ドレスデン時代までが普通のオペラ作家で、1850年以後は、ひととおり普通のオペラを書き終えたあとの第二の人生かもしれないと思う。ヴェルディにも似たようなところがありますよね。ドン・カルロやアイーダ、オテロ、ファルスタッフは「第二の人生」感がある。それは、アートが同時にエンターティンメントであり得る時代が終わって、余生や副業としてしかアートが成り立たなくなる時代の始まりだったのかもしれない。

日本人研究者の英語力を測る起点はどこなのか?

日本人研究者にとって英語力は必須だ、とか、研究者の英語力は確実に向上している、とか、実に不思議な議論があるようなのだが、「向上」の起点はどこなのだろう? 日本の近代の学問は、英語もしくは欧米語の読み書きができなければたちゆかないと観念して洋学導入に舵を切り、明治の高等教育は欧米人教師が欧米語でやっていたのだから、その外国語の要求水準が無限大であったと考えるしかない。その時代から考えれば、現状で「向上」とか何とか言うのは、ほとんど誤差の範囲なのではないか。

たぶん、「向上」とかなんとか言う人は、無意識暗黙に、新制大学、あるいは自分が直接知っている全共闘世代からあとのことだけを考えて、戦前は「有史以前」くらいに思っているのだろう。底の浅い話である。

それとは別に、特に人文科学では、「向上」云々を言うときの参照元と思われる欧米語の論文の語彙や文体がここ数十年で大きく変化しているように思う。そして語彙・文体の変化は、おそらく、理系の論文同様に、その言語を母語としない者への参入障壁を低くするフラットな英語に向かっているように思う。

日本人研究者の英語力が若い世代ほど「向上」しているかのように見えるとしたら、それは、そのような現在進行形の変化への適応力が若い人ほど高い(古い人はそういう新しい英語を知らない)、というだけのことなのではないだろうか。

(しかし、最新の動向への適応力を能力の「向上」などと言ってしまったら、英語だけでなく日本語(学問の)だって変化しているのだから、若い世代ほど日本語の運用能力が高くなってきて頼もしい、というトンデモな主張を展開することができてしまう。詭弁である。SNSは、こういう詭弁が横行するから、たまに見ると脱力する。)

「新世界」と「俗謡」

かつて『音楽現代』に書いたことだが、私は、「新世界」交響曲でドヴォルザークはブラームスに見いだされて以来長らく封印していたプラハ時代のワグネリズム(生前に未出版だった第5番までの交響曲に認められるような)を別の形で再開したのではないかと思っていて、先日、大阪音楽大学音楽院の講座でこのことをお話させていただいたのですが、

その講座が終わったあとで、大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」の印象的な冒頭部分の元ネタは「新世界」だろうと不意に気がついた。

大栗裕は、生前の大学の管弦楽法の授業で、自作にはしばしば元ネタがあることを告白しており、それによると、吹奏楽のための小狂詩曲の冒頭のティンパニーのロールはグリーグのピアノ協奏曲のパクリ(言われてみればそのまんま)であり、神話の冒頭の六連符のパッセージは、ムソルグスキー「展覧会の絵」のこびとの低音の六連符を高音域に移して異化するアイデアだったらしい。

だとしたら、大阪俗謡による幻想曲の冒頭、ピーッと甲高く笛を吹いて、そこに弦楽器が不協和音で重なって、打楽器が高音から低音へ急降下するアイデアにも、何らかの下敷きがあっても不思議ではない。たぶん「新世界」第1楽章の、低音弦楽器と木管楽器が作り出す沈鬱な静けさを破る突然のフォルテが元ネタだと思う。ドヴォルザークでは、闇を切り裂くようなヴァイオリンとティンパニーの連打を木管楽器の和音で受け止めるが、大栗裕は、中低音から甲高い高音域へ、という音の方向、弦→打楽器→管楽器という音色の配置を逆順にして、甲高い高音域から低音への落下を管楽器→弦楽器→打楽器という楽器配置で実装したと考えれば、「大阪俗謡による幻想曲」が「新世界」交響曲を踏まえつつ組み替えて出来上がった、と説明できそうだ。

音楽学では、この種の影響関係を論証するときに、楽譜が似ている、というだけではダメで、作曲家がその前例を知っていた/創作時に意識する環境にあったと推測できる根拠を見つけないといけないことになっているが、これもなんとかなりそうだ。

「大阪俗謡による幻想曲」は1956年春に初演されるが、作曲は前年末から同年初めにかけてであった可能性が高い。そして、現存する自筆譜から、

  • 1955年夏 朝比奈隆の翌年のベルリン・フィル演奏会への出演決定
  • 1955年秋以後 「大阪俗謡による幻想曲」の最初の草稿と「管弦楽のための幻想曲」作曲
  • 1956年1〜2月 「管楽器と打楽器のための小組曲」(ディヴェルティメント第1番)作曲
  • 1956年3〜4月 「大阪俗謡による幻想曲」完成

という順序だと思われるのだが、「管弦楽のための幻想曲」が初演された大阪労音の1956年1月例会では、あわせて、「新世界」交響曲が演奏されている。つまり「大阪俗謡による幻想曲」は、連日「新世界」をホルン奏者として吹いている時期に作曲された、もしくは構想が練られたことになる。

(ただし、「管弦楽のための幻想曲」の作曲・上演と、「大阪俗謡による幻想曲」の最初の草稿(そこに既に冒頭部のアイデアが書き記されている)のどちらが先か、ということは、自筆譜から確定できない。1955年に既に「大阪俗謡による幻想曲」の作曲がはじまっていたとしたら、1956年1月に「新世界」を演奏したのは偶然の一致に過ぎないことになる。「大阪俗謡による幻想曲」の自筆譜には、最初の草稿を大幅に書き直して完成した痕跡があり、この書き直しが「小組曲」以後=1956年2月以後であることは大栗裕自身の証言から確実であり、また、最初の草稿の和声等の様式は「管弦楽のための幻想曲」に近いのだが、これが「管弦楽のための幻想曲」の前に書かれたのか、後に書かれたのか、ということまでは特定できない。)

「大阪俗謡による幻想曲」の主部が天神祭の地車囃子と生國魂神社の獅子舞囃子を組み合わせた「大阪の夏祭り」の音楽なのは本人も認めているけれど、序奏をどう考えればいいのか、前からずっと腑に落ちない感じがあった。重要なのは、「新世界」が元ネタだと確定できるかどうか、という事実認定ではなく、フォークロア風の主題を組み合わせた管弦楽作品に謎めいた序奏を付けるのはドヴォルザーク=国民楽派に著名な先例があったということだと思う。

チャイコフスキーの序曲類にも似たような構成の曲があると言えそうだし、バルトークの管弦楽のための協奏曲の第1楽章の序奏は、「国民楽派」を踏まえたモダニズムなのかもしれない。そしてバルトークのオケコンが書かれたのは、大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」の約10年前だ。それほど前のことじゃない。ドヴォルザークやチャイコフスキーのナショナリスティックなオーケストラ作品には、序奏=宵闇/主部=夜明けと形容できそうなイメージの型があり、1945年のバルトークや1956年の大栗裕は、その型を採用したんだと思う。

ただし、「新世界」の第2楽章以後については、「ハイアウサの歌」にもとづくオペラの計画があって、その素材を流用したと言われているが、第1楽章もその線で説明できるのか、私はよく知らない(既に研究がありそうだが)。でも、「大阪俗謡による幻想曲」の主部についても、最初の主題をホルンが吹き、中間主題が木管楽器、第2主題がソリスティックなフルート(ピッコロ)であるところは「新世界」第1楽章とよく似ているし、祭りのリズムにおけるヘミオラの多用は「新世界」交響曲第3楽章のアメリカ化されたフリアントと似ていなくもない。

ビジネス街と「カワイイ」の相性

先日来、お昼休みのOLさんや夜10時前の会社帰りの初老の背広姿の男性が、大阪中央郵便局の跡地、西梅田スクエアに立ってスマホを凝視している。

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「カワイイ」を被せることでパチンコ的暇つぶしがパーソナルな隙間に入り込むことに成功しつつあるようにも見えるし、癒しと懐かしさが混淆するサンリオのキャラクターグッズをアラサーな方々が支持する現象と連動しているようにも思われる。