5000分の1

確率が0.02パーセントだと言われたら猛然と5000回ルーレットをまわす。いや、5万回トライして10回ゲットを目指す。ゲームへの熱中に装填されているこの種の根性は、どういう名前が付いているのだろう?

私にはそういう種類の根性はなさそうなのだが。

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二本の足で立つ primates

Western primatology stems primarily from research by North American and European scientists. Early primate study focused primarily in medical research, but some scientists also conducted "civilizing" experiments on chimpanzees in order to gauge both primate intelligence and the limits of their brainpower[citation needed]...

Primatology - Wikipedia

拡張現実におけるベイビーを優遇していると、それにつられて二本の足で立つ種を残して他を弱いままに留め置きたくなるのだが、霊長類と訳される二本足を prima とみなすのは人類の奢りなのだろうか。

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そして、いわゆる二足歩行ロボットは、ロボットにおける霊長類 primates なのだろうか?

ゲームの「リアリティ」を「2.0」に更新するというのであれば、「動物化」のほうも「2.0」に更新されてよかろう。

それはそれとして、国立大学の学費の高騰が学生を圧迫しているというけれど、かつて学費が安かった時代の苦学生は、生活環境も今とは随分違ったはずだ。ほぼプライバシーのない寮や安下宿に住んで、大講座制の研究室では教授の徒弟だったわけで、いまから学費だけを下げても、当節の親がそのような環境に子供たちを投げ入れるとは思われない。

大学進学率も全然違う。

苦学の末に学問で身を立てる、というのは、かつてはマイナーでリスキーな道だったのではないだろうか。

だから、なるほど「最近の学生は苦労を知らない」と嘆くときに美化された過去(バイトで学費をまかなった俺たちの学生時代)を引き合いに出すのはおかしいが、他方で、学生のリスク軽減のために学費を下げろ、「本来、学費はタダでいいはずだ」と主張するときに過去の日本を参照するのは、五十歩百歩の議論に見える。

貧乏でも根性があれば知は育つ、という前提で根性のある者を優遇したがる競技者育成の発想がそもそもおかしい。学問は相撲ではない。

もし、学問と相撲のアナロジーを展開するのであれば、外国人に門戸を開くことで角界が一息ついて、これを受けて日本人力士が復活しつつある状況が、アジアにおける日本の政治・経済・文化が絡まるややこしい立ち位置を反映していることに着目したほうがいいだろう。日本は、OECDとやらの統計を恣意的にピックアップすると、先進国とは言いがたい教育行政が貧弱な国家に見せかけることができるかもしれないけれど、相対的に裕福で、それを直視しないから話が不透明になっているのだと思う。

情報は足で稼ぐ

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阪急宝塚線から見えるこの野球場は、第1回と第2回の全国中等学校優勝野球大会が開催された豊中球場(そもそも場所が別で現存せず、今はメモリアルパークになっているらしい)ではない。きれいに整備されて、伊丹空港A滑走路に着陸する中小型旅客機が良い感じに見える公園でした。

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ゾウといえば地上最大の生き物だが、ドンファン(英語名も Donphan)という不穏な名前のこのキャラクターは存外小さい。人間より背が低い設定になっている。ドン・ファン Don Juan は見た目のハッタリが効いているけど実際は……、という含意ではないと思うが。

音楽の出演料と著作権

「作曲者」に認定されないミュージシャンは著作権料の恩恵にあずかることができないから不平等だ、という議論をポピュラー音楽学者が仕掛けているようだが、プレイヤーは出演するごとにギャラが入るんじゃないの? 楽譜を準備した者は、プレイヤーと違って演奏ごとにギャラが入るわけではなく、これでは生活が成り立たないから楽譜や録音に対する制作者としての権利を認定しよう、というのが著作権だったはずで、その基本を故意に隠して議論するのは詭弁だと思う。

著作権を大陸観念論の産物だと主張するのは、20世紀のイデオロギー批判の悪しきプロパガンダだろう。音楽著作権の確立に尽力した音楽家たちは、ロッシーニとマイヤベーアにせよヴェルディにせよリヒャルト・シュトラウスにせよ、概して実務的で実業家肌の人たちです。(日本の芸術と著作権に関して顔をさらして発言してきた三田誠広や松本零士や小林亜星もそうだと思う。)

二流とはいえ学者を名乗るのであれば、事実を踏まえることなく、印象論で議論するのは、もういいかげん止めて下さい。

JASRAC という組織が自動機械風に料金の徴収を過激化させるのは、著作権の思想的問題というより実装の不具合だと思う。いきなり思想問題に格上げするのはおかしいです。

(増田聡先生は、本を出版するときに、それまでネットに公開していた論文を全部引き揚げましたよね。そうやって商業出版の利益を確保するのが著作権の基本なんじゃないんでしょうか?)

♀の進化、性徴とクール・ジャパンの感性学

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♀のピチューを進化させたら、ピカチューもライチュウも尻尾の先が尖っていない。

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属性で外見を変える実装。今もこの種は先進的(は言い過ぎかもしれないが、十分現役)であるようだ。

マンガ、アニメ、ビデオゲームはニッポンの戦後的価値観の最良の部分の表象である、という主張が大塚英二から東浩紀に至るオタク批評の王道であり、旧態依然にホモソーシャルなニッポンの大学における国策クール・ジャパン研究は覇道の疑いが濃い。

だとすれば、男子たちの力を弱めて、女子と子供を強くするのは、このゲームのプレイスタイルとして、あながち的外れではないかもしれない。

ジョウトの新顔たちは、ベイビーと♀に着目すると、カントーな者たちと調和して相貌の好ましい状態を保つことができるようです。

[追記]

♂と♀の外見の違いは、他の種にも全体のデザインを壊さない範囲で細かく仕込まれているようで、

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この頭でっかちで神経質に見える種族はアイコンの状態でも左耳が違う。性徴が露わで早熟な子供であるらしい。

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お笑いジョウト

落語家風に正座するキャラクターが関西テレビの周囲に多く出現しているが、

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ハリセンは確定申告で税務署へ行く途中に、嘉門達夫の実家の近所で見つけた。

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そのあと、マンタが出たようなので旧茨木川跡の散歩道(ここを歩くのは高校3年の妙見夜行登山以来ではないか)を進むと斎場に出た。父の葬儀をやった八尾の火葬場とロケーションや雰囲気がよく似ている。同じように冬の晴れた日なので、なおさらそう思ったのかもしれない。

斎場から数ブロック行けば、道が碁盤目状に区画されて、城下町らしい街並みに戻る。旧市街に入ると、歩道もきれいに整備されている。

関ヶ原のあと片桐且元が茨木城主だった時期があるらしいが、城下町の火葬場はこういう方角にあるものなのか、と思っていると、高校時代に後輩たちが吹奏楽コンクール地区大会の打ち上げをやった喫茶店が、今も当時のままの姿で営業していた。

このキャラクターたちがデザインされた1990年代末には、10数年後の「カントー地方」(リアル)で激烈な吉本バッシングが起きるとは夢にも思わなかったでしょうね。

sports は何がどのように desportare なのか

スポーツはビデオゲームに先駆けて随分前から大学にポストを確保しているし、メディア・イベントとしての隆盛を受けて、スポーツ(自ら競技しない観戦を含む)の社会学もさかんなようだ。遊びの社会学の井上俊先生が武道とスポーツの社会学に進んだのがその典型だろうと思う。

sports の語源は desportare。荷を運ぶ(portare)の否定形(des-)で、重荷を降ろす→気を晴らす/憂さを晴らす、ということのようですね。

しかし、sports は具体的に何がどのように desportare なのだろう。20世紀以後の身体観に照らすと、身体を動かすことによる開放感が desportare なのかなあと思うけれど(「あじわいの美学」にそのような話がありませんでしたっけ)、貴族の sports (乗馬やフェンシング)は、武術の基礎技術ではあるのだけれども命のやりとりをしない訓練であるところが desportare なのではないか、という気がしないでもない(ノルベルト・エリアスが「文明化の過程」としてスポーツに注目したのはこの文脈だろうと思う)。

エリアスの文脈は、ホイジンガ流のホモ・ルーデンス論と合流して「遊び/ゲームとしてのスポーツ」という観念を支持しそうだが、desportare の語の理解として、これで大丈夫なのだろうか?

競技音楽の時代

ゲーミフィケーションというキラキラ用語で言われていることを、game という言葉を外して言い直すとどうなるかの一例だが、ここ数年の日本のクラシック音楽で何が起きているかというと……、

補助金漬けの体質を脱して自活せよ、という明示的・暗黙的な大号令が各所から発せられて、これ自体は世界的な潮流だが、日本の関係者がどうしたか、というと、音楽を、世間で好調であるらしいスポーツに似た「競技」に擬して、システムを組み替えようとしているのだと思う。本家ヨーロッパにはまだ「アート」の概念がありそうだし、北米なら「カルチャー」や「ホビー」の領域を頼ることができるのだろうけれど、この島ではどちらも弱くて、スポーツだったら、オリンピックでも各種競技会でも、それなりにワールドクラスな人材を出すインフラがあるので、これが手っ取り早いモデルになった、ということだと思う。(吹奏楽のように競技性の強い隣接ジャンルがさかんでもあるし。)

文学や美術も似たところがあるんじゃないだろうか。

たとえば批評の場所がなくなりつつある(ように見える)というのは、競技だったらルールがあって勝敗がフィールド内で自ずと決まり、判定は厳正な審査・審判としてしかるべき機関が行うはずで、観客があーだこーだと評価を下す余地はない、ということの類推だと思う。観客の仕事は「感動」や「感想」を語ることであり、私設審判団めいた批評とか意味わからん、ということだと思われる。

そして音楽ライターの台頭は、スポーツライターのそれに似ている。競技は、批評するものではなく、プレスパスを持った者が「取材」する対象であり、それに尽きるというわけだ。

「フェアプレイ」の精神でトレーニングを積んだ日本のオーケストラがドイツの地方新聞でけなされる、という事態が起きたときに、音楽ライター山田治生が「それは審判の地元笛だ」と言い放ったのは、典型的な「競技音楽」の発想だろう。

でも、音楽は競技じゃない。何らかのルールを自前で想定して「フェアプレイ」に徹するのは、そうしたいならやってもいいが、残念ながら、音楽に厳正な審判は存在しない。

そんなものが存在しないにもかかわらず、各々好き勝手な判断が積み重なったときに、おおむね、そんなところだろう、という線に落ち着いてしまうのがアートの面白いところなのだから、「ゲーム/競技」モデルには無理がある。

そうは言っても、こういうことは戦争と同じで一度動き出したら行くところまで行かないと止まらないだろうから、一方で、「競技」モードで勝つしかあるまい。

(ゲームではないものをゲームとして遊ぼうとしても、プレイ自体が破綻するか、あるいは、あほらしくて、みんなそのうち飽きるor止めるだろうしね。)

そしてこの種の、あほらしいことに当面はつきあわなければならないんだなあ、というのは、哲学で言うアンチノミーとは違うと思う。売れるメジャーでありつつマイナーであれ、みたいな格言は、哲学ではなく単なる処世術だ。

世紀転換期に、ライヴvs録音、みたいな線引きであれこれ言っていた頃とは、世の中のモードがはっきり変わった感触がありますね。

脱・序曲

今度の大河ドラマのテーマ音楽は、シリアス音楽の作曲家たちが映画音楽の応用で踏襲してきた「序曲」の文法をすっかり外してしまったんですね。ブラスの盛り上げ方は吹奏楽っぽい。菅野よう子か。

自己模倣と革命歌の引用

ショスタコーヴィチの交響曲第12番は第5番の焼き直しのような自己模倣。第5番自体がベートーヴェンとチャイコフスキーを掛け合わせた一種のパロディなのだからコピーにコピーを重ねて、ストーリー展開はスムーズだし、能力のある作曲家が12曲も交響曲を書いたら技量は上がる。オーケストラのヴィルトゥオーゾ的なショウピースとしては、途方もない曲ではないと思う。(もっと演奏されてよさそうなのにそうなっていないのは、「1917年=レーニン/スターリン交響曲」というメッセージ/プロパガンダだからなんでしょうね。)

そしてこういう風にシンフォニーのフォーマットが快調すぎるくらい透けて見える音楽と並べると、交響曲第11番の異様さが際立つ。

導入部の調性の枠内で進行しているのにあっちこっちで闇に足を踏み込む不気味な和声だけでも尋常ではないと思うけれど、これは、革命歌をつなぎあわせた「歌の交響曲」なんですね。軍歌や宗教歌の伝統に連なる革命歌と、シンフォニックなオーケストラという人工的な音響合成装置の様式・書法の対立が、民衆に重火器が襲いかかる血の日曜日事件と重ね合わされている。

「歌」を連ねてシンフォニーを書く、というのは、第5番/第12番とはまったく別系統の課題で、作曲家として興味をそそる仕事だったのではないだろうか。ショスタコーヴィチがこのあと独唱や合唱を伴う交響曲を手がけるのは、この革命歌による交響曲の経験があったからこそではないかと思う。20世紀の交響曲には、これと平行する事例がありそうだし、ベートーヴェンの第九にはじまるカンタータ交響曲の系譜とは違うタイプの歌と交響曲の組み合わせ方をしているのだから、交響曲第11番は、交響曲の歴史にしかるべき位置を占める特異点ではないかと思う。

オーケストラのアンサンブルのたがが緩みかけている演奏だったのは否めないけれど、こういう企画で2つの交響曲をくっきり描き分ける仕事は井上道義にしかできないと思う。オーケストラの性能を再度チューンアップするためには、なるほど別の指揮者が必要なのかなあ、と聴きながら思ったのだけれど、でも、家に帰ってしばらく考えているうちに、こういう事態の責任を全部指揮者に負わせるのは、根本的解決というより対処療法のような気がしてきた。

指揮者に責任を負わせることで、オーケストラの体質的な問題が不問に付されて先送りされていいのかどうか。大事な場面のフルートとクラリネットのソロのピッチがあんなにおおっぴらに合わないのは、指揮者が悪い、というだけのことではなさそうな気がする。

(それにしても、ショスタコーヴィチが当局との緊張関係のなかで書いた「戦いの交響曲」の合間の休憩時間にロビーで東条氏をみると、「中央から偵察に来たKGB」みたいに見えてしまいますね(笑)。)