ゲームと競技、ゲームと科学、ゲームと経済……

英語のように play と game を区別する言語は他に見当たらない、という意見があるようなのだが、日本語の競技・競争に相当する言葉を多くの言語に見つけることができるのではないだろうか。だから、英語の特徴は、遊びとゲームを区別することにあるというより、競技・競争に相当する概念を遊びに引きつける傾向が強い点にあると言うべきではないか。そしてゲームという概念を持ってしまった英語は、そのことによって、遊びと競技・競争の境界や差異や関係を語ることが、むしろ、難しくなっているのではないか。

そしてさらに言えば、ゲームへの関心、ゲーム化への過剰な期待の基底には、ゲームの語を使うことで、競技・競争の語を消してしまって、競技・競争を競技・競争としては語れなくしてしまう欲動があるんじゃないか。

なぜ、そんなことを欲望するか、というと、たぶん、世界を全面的に競技・競争の舞台としてのゲームにしてしまいたいのだと思う。私は無理だと思うけど。

たとえば、戸田山和久の科学哲学は、「科学はゲームではない」ということを、あたかも科学をゲームであるかのように語れてしまいそうな英米哲学の作法で論証しようとするところが特異で勇敢なのだと思う。

たぶん、戸田山に続け、とばかりに、「経済はゲームではない」「政治はゲームではない」「アートはゲームではない」ということを英米哲学の作法で論証することができるのではないか。そしてそうなると、この世界には、なるほどそのように望めば「ゲーム的」に取り扱うことができないわけではないけれども、きちんと議論を詰めれば、残念ながら、やっぱりゲームであるとは言い得ないような領域がたくさんあって、そういう領域を取り去っていくと、ゲームの領土はかなり小さく痩せ細るのではないかと私には思えてならない。

ゲームへの過剰な期待が落日の大英帝国に見える、というのは、そういうことだ。

「大英帝国2.0」の euphonia と性差

拡張現実がピンク色に染まるところまでは、日本産のキャラクターをこのように意味づける21世紀のオリエンタリズムが発現した(=ジャパニメーション/クール・ジャパンは21世紀のグローバル情報社会における新種のエロチシズムだよね)ということでいいとして、幸運という名のキャラクターがエプロン姿の幸福に進化するのを目の当たりにすると、euphonia という言葉が浮かぶ。多幸感と訳されるが、17世紀以後近代の医学・心理学によるギリシャ語めかした造語には、人為的な過剰の含意がありそうなので、「多幸」というより「過幸」かもしれない。

game と play が別の言葉であるアングロサクソン圏とは、事実上、旧大英帝国領なのだから、game play における rule の語は、彼らの大好きな「大英帝国の君が代」であるところの Rule Britanica の rule を背負っていそうですよね。

ハーフリアルが euphonia を指向する「リアリティ2.0」は、むしろ落日感と裏腹の「大英帝国 2.0」なんじゃないか。そしてそのような文脈におけるゲーム研究は、フランスとドイツのナショナリズムの表象を探究した者が、満を持して、大英国の表象に取り組むことだ、というのであればいいのだが、今はまだ、その種の言説は、探究なのか郷愁を伴う帰依・帰属(ハーフリアルな大英帝国2.0への)なのか、区別がつかない。

彼らには、まだこの課題における研究と帰依と郷愁(←学生時代の憧れの先輩に誉めてもらうことを無上の喜びと思うような)を分けるものが何なのか、はっきりつかめていなさそうな印象がある。

(マイナーであることと、メジャーに売れることのアンチノミーを引き受けろ、みたいな言い古されて当然すぎる格言を弄んでいるようでは、危なっかしいことこの上ない。)

[追記]

と書いてから一日経って、少し考えが変わった。多幸的なエプロン姿は♀の象徴なのかもしれませんね。年末年始に新世代をベイビーでシンボライズしたところからストーリーがつながっていそうだ。

旧世代にも性別が事後的に設定されたが、確認したら多角形のカクカクしたキャラクターだけ性別がない。

世界をピンク色に染め上げる先般のイベントで、この多角形と、のちにエプロンに進化することになるキャラクターの2つが大量に出現したのは、新世代の登場で性差を導入することへの誘導だったのかもしれませんね。

わたくしは、闘う意志をもたないので、相貌の好ましい種だけを強くして、あとのキャラクターはすべてcp10を目標にどんどん弱いものだけを選別して残す、ということをずっとやっておりますが(TLが上がると、cpが低いのを見つけるのはそれなりに根気が要る)、事後的に導入された性別を確認すると、わたくしがcp1000以上に育てていたキャラクターたちは、♂が8種、♀が5種。雌雄の比率は、日本の大学教員の男女比よりも、はるかに雇用均等・共同参画な感じになっていたようです。

それなりにポケモンgoをやりこんでいると伝えられる記号学会の会長さんや、自宅のベッドでゲームを楽しんだ(参与観察した?)と自己申告しておられたゲーム研究者さんのお手元のデータベースは、どういうことになっているのだろう。

ヴァーチャルが現実に介入するゲーム的ジェンダー論の恰好の素材だと思うのですが?

(そして女性参政権は20世紀のムーヴメントであり、ドイツにせよフランスにせよ大英帝国にせよ、第一次世界大戦以前の帝国とナショナリズムを扱っているかぎり、出て来ない案件ですが、大英帝国的に「リアリティ 2.0」を構想して、大丈夫なのでしょうか?

他方で、新世代における性差の導入は、同じ種でも外見や属性が異なる状態を保持するわけで、プログラミング上の大きな変更だっただろうと思われます。データベースの項目を増やして、億単位のユーザデータに新たにそれを書き込んでユーザの端末と無線通信で同期するのだから作業は膨大ですね。ピカチュウに赤い帽子を被せたり、ベイビーの登場で図鑑の枠を段階的に増やしたのは、この作業の下準備だったのかもしれませんね。

人間たちが雑誌や研究会で「1.0」感満点にホモソーシャルな旧交を温めている間に、ハーフリアルなのかもしれないゲームは、着々と性差のある「2.0」を遂行している。)

憂国のようなもの

山田和樹が本気で取り組むとしたら柴田南雄だろうとは思うけれど、柴田南雄によって代表される文化や地域というのがあるとしたら、それはあまり幸福な共同体ではないかもしれないなあと思う。

柴田南雄は作曲家としても音楽学者としても一流であった、と留保なしに言い切ろうとするから無理が生じる。様式模倣が生気のない標本のようになってしまうことや、科学精神といっても枚挙という方法論による系統樹の作成を目指していたに過ぎなかったことが柴田南雄の限界であり、再評価はそれを認めた上での話だろう。

ところで、「ゆく河の流れはたえずして」を初演したのは森正だったわけだが、柴田南雄の自伝を読み直すと、敗戦直後の森正がフルート奏者として参加していた室内楽を柴田が高く評価していたことがわかる。後年の文章でも、何度か当時を回想している。この交響曲は森正を信頼したうえで書かれたんだと思う。

この交響曲は、いかにも森正が適切に演奏できそうなスタイルで書かれていそうだし、例えば、古典派の様式模倣は、漠然と古典派の模倣という一般論で語るのではなく、森正がフルート奏者として吹いたモーツァルトの記憶(敗戦直後の日本の洋楽ファンの脳内にあった古典音楽のイメージ)だと思うほうが、像がくっきりするのではないか。後期ロマン派や無調等についても、模倣の典拠を同様に正確に特定することが、そのようなところに典拠を求めることで“歴史”が語れると考えてしまった作曲者の歴史性を現在の視点から評価する手がかりなのではないか。シュポアの歴史交響曲が、1830年代に書かれた当時既に盛りを過ぎつつあった音楽家による歴史像だったように、柴田南雄のメタムジークは、あくまでも1970年代後半に還暦を迎えた初老の日本人男性に音楽の歴史がそのように見えていた、という以上のことではないと思う。

プッチーニと三木佐助と日本音楽の五線採譜史

「蝶々夫人」はカルスタ・ポスコロの恰好の題材で、ロティ「お菊さん」やオペラ「ミカド」などを参照しながらロングの小説、これにもとづくベラスコの戯曲(これをプッチーニはロンドンで観た)を読むのが流行っているが、「蝶々夫人」が、宮さん宮さんやお江戸日本橋やかっぽれを原曲の文脈と無関係に引用した功罪については、随分前に徳丸先生が書いて以後、あまり進展がないように見える。

ひと頃は、イタリア大使夫人の大山久子(川上貞奴の欧州巡演を助けたこともあったらしい)がプッチーニに接触した事実に着目する議論もあったが、どうやら、彼女がアプローチする前からプッチーニは独自に日本の音楽の資料を集めていたらしい。

プッチーニ「蝶々夫人」のアメリカ批判 - 仕事の日記

それじゃあ、プッチーニは具体的にどのような資料で日本音楽を知ったのか?

フレッド・ガイズバーグの1903年の録音(レコード黎明期の日本の音楽の最古の録音)をプッチーニが入手していたのではないか、という説がちゃんと検証されたのか、私はよく知らない。(「蝶々夫人」作曲当時に存在したのはこの録音くらいだとは思うが。)

ほかには三木書店(のちに三木楽器を創業した三木佐助の店)から出ていた『日本俗曲集』(海外の需要を想定したのか英語の序文と目次が添えられて曲名は日英併記)が注目されているようだ。

国会図書館のデジタル・ライブラリーを見た限りでは、『日本俗曲集第1集』は1891年の初版、1892年の再版、1893年の四版で、収録曲や版組が少しずつ違う。「みやさんみやさん」「お江戸日本橋」など、プッチーニが使った旋律が揃うのは1893年の版になってからのようだ。

プッチーニの遺品等と照合してこのあたりを詰めれば、しかるべき研究になると思うのだが、誰もやっていないのだろうか。

『日本俗曲集』の編者は、1888年に第四師団軍楽隊員として大阪に着任したばかりの永井岩井(第四次第軍楽隊設立時の楽隊長だったらしい)と小畠賢八郎(隊長時代に菅原明朗が作曲を学んだことでも知られる)だし、日本における五線譜トランスクリプションの歴史に、三木佐助(のちにベルリンから帰国した山田耕筰をサポートすることになる)がしかるべき位置を占めているとしたら、関西洋楽史としても面白いトピックだと思うのだが。

好奇心

その1:

春先に何度か通ったはずだと思い、写真を探したらあった。

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市議会議員さんが国からの売買契約の情報開示を求めた土地の上空を飛ぶANAのボーイング767。

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exif情報によると、2016年4月26日14:55。着工前ですね。

その2:

2匹目が誕生したので、ピカチュウに関することはひととおり試すべし。

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進化させてみた。

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リバーダンスのヘクサメーター

楽譜をはじめて見たのだが、デュオのところは 6/8 と 4/4 が交替する変拍子。

-uu -uu | -u -u -u -u | -uu -uu | -u -u -u -u | -uu -uu | -u -u -u -u |

そしてフレーズの最後だけ 6/8 + 6/8 + 4/8 に変わって、

-uu -uu | -uu -uu | -u -u |

つかめそうでつかめないすばしこいリズムになっている。

要するに、2拍もしくは3拍のユニットが6つ並ぶ6韻脚ヘクサメーター風のパターンを、3 3 2 2 2 2 と実装するか、3 3 3 3 2 2 と実装するかの違いですね。

3 3 2 2 2 2
-uu -uu -u -u -u -u
3 3 2 2 2 2
-uu -uu -u -u -u -u
3 3 2 2 2 2
-uu -uu -u -u -u -u
3 3 3 3 2 2
-uu -uu -uu -uu -u -u

小節 tactus を分割する西欧の中世以来の数比的なリズム把握ではなく、小さなユニットをシリアルにつなげていく加算的なリズム把握だ。

一方、ラストの群舞は、同じメロディだがユニットがひとつ少ない5韻脚で、12/8 の普通のヘミオラでとしてオーディエンスがフォービート風にノルことができる(=加算的にも数比的にも聴くことができる)。

-uu -uu -u -u -u | -uu -uu -u -u -u | ... = 3 3 2 2 2, 3 3 2 2 2, ...

-uu -uu -u -u -u = -uu -uu -u- u-u

シンプルだけれども効果的なアイデアだと思う。作曲はビル・ウィーラン。


Eurovision 1994 Interval Act - Riverdance

大栗裕の早口でまくしたてる大阪言葉風の変拍子をちょっと思い出す(「大阪俗謡による幻想曲」の地車囃子に萌芽があるけれど、本格的にこれを使うのは70年代の「神話」以後)。フォークダンスをこういう風に近代化するアイデアは、技法としては、モードを使って民族性を演出するのと同じくらい古い芸術音楽の定番ではあるが、数比リズムと加算リズムという概念枠を導入すると、比較文化論っぽい話に展開できるかもしれない。

(色々な演奏を聴いたけれど、現役指揮者で大栗裕の加算的なリズムをつかんでいるのは井上道義だけのような気がする。ラテン系の音楽に取り組んでいると、加算的なリズムへの適性が高くなるのかもしれない。ドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーは加算的なリズムをしばしば秘かに使う人たちで、メシアンはそのことに気付いて不可逆リズムを考案したわけだが……。バーンスタインがプエルトリコ移民に関心を寄せて作曲したウェストサイド・ストーリーのシンフォニック・ダンスにも加算リズムの素敵なスケルツォが出てきますね。以前、宮澤淳一さんが指摘していたグレン・グールドのBPMのトリックも、西欧古典音楽の tactus を加算的にフラット化していると言えそうだ。)

ジャコパス

10数年前にジャズのライブによく通った時期があるが、それは個人的なきっかけからのことで、岡田暁生と張り合おうとしたわけではないし、ちょうど『憂鬱と官能を教えた学校』が刊行された頃だが、この本を読んだのは少しあとだったように記憶する。

(岡田暁生がジャズにハマっていると知ったのは随分あとのことで、大久保賢を連れてロイヤル・ホースへ行くとか、なんて恥ずかしいことをやっているんだこの人たちは、としか思わなかった。)

あるとき、地元の小さなライブハウスで、アフターアワーズにブルースハープ吹きが畏敬の念を込めて「ジャコパス」という言葉を口にして、会話がひとしきり弾んでいたのだけれど、私には何のことかわからず、「ウェザー・リポートですよ」とヒントをもらったのだけれども、そのときはそれっきりになった。

さっきバードランドなどをひとしきり聞いて、なるほど、この曲を岩井直溥が編曲した吹奏楽で知っているように思うのは、モーツァルトのコンチェルトを弾く姿だけでチック・コリアを語るのと同じくらい野蛮なことなのだろうと思った。

1943年のブルース行進曲と1981年の盗賊行進曲

サミー・ネスティコの周辺を調べていたら、ジョン・ウィリアムズまで話がつながってしまった。

ジャズの解説には、カウント・ベイシー楽団のアレンジャー、サミー・ネスティコが空軍バンド(US Air Force Band)出身だ、としか書いていないが、それじゃあ、空軍バンド(US Air Force Band)とは何なのか。

吹奏楽で「USエアフォース・バンド」は大変有名で、数々のオリジナル作品を委嘱初演したことで知られている。私も大学時代に、クロード・T・スミスが彼らのために作曲したフェスティヴァル・ヴァリエーションズという曲をやった。

空軍バンドの公式サイトで確認すると、US Air Force Band はひとつではなく、Concert Band (これが吹奏楽で言うエアフォース)のほかに、ジャズのビッグバンド(Airmen of Note)や声楽アンサンブル、今ではロックバンド(Max Impact)もあるらしい。ネスティコはUSAFのビッグバンドにいたようだ。

USAFのビッグバンドは、公式サイトでグレン・ミラーのバンドの後継だと称している。

Created in 1950 to continue the tradition of Major Glenn Miller's Army Air Corps dance band, the current band consists of 18 active duty Airmen musicians including one vocalist.

The United States Air Force Band - Band Ensemble Bio

グレン・ミラーが第二次世界大戦への合州国参戦を受けて1942年に陸軍航空隊に入って組織したバンドですね。(上の引用は Army Air Corp と書いているが、一般的にはグレン・ミラーの Army Air Force Band = AAF Band と呼称されるようだ。)日本語のサイトでは、「慰問」という言葉を使って、まるで民間人が国民総動員で戦争に協力したかのように書かれていたりもするが、グレン・ミラーは1942年から1944年に飛行機で消息を絶つまで軍属だった。階級は大佐 captain で、所属は

assistant special services officer for the Army Air Forces Southeast Training Center at Maxwell Field, Montgomery, Alabama

ということになるようだ。

合州国陸軍 US Army の航空隊 US Army Air Force が合州国空軍 US Air Force = USAF に改組されたのは1947年なので、1950年の Air Force Band へのビッグバンド設置はその直後という時期になる。「伝統を受け継ぐ」といっても、USAF のビッグバンドがグレン・ミラーの AAF Band の何を継承したのか、具体的なことはよくわからない。

グレン・ミラーの AAF Band は北米・欧州を巡演するだけでなく、連合国のプロパガンダ放送で番組を持ったりしている。YouTube にはその音源もいくつか上がっていますが、AAF Band の性格をわかりやすく示すのが「セントルイス・ブルース・マーチ」だと思う。

1914年に作曲されて、ルイ・アームストロングなんかも録音しているブルースをマーチに仕立てたグレン・ミラーのヴァージョンは1943年の AAF Band での仕事だったんですね。グレン・ミラーは「軍楽隊の改革」を標榜して、スーザのマーチを演奏していたメンバーにビッグ・バンドのスウィングを仕込んだ。その過程でマーチ仕立てのブルースが生まれた、ということのようだ。

日本の吹奏楽では、この「セントルイス・ブルース・マーチ」、セントルイス・ブルースの AAF Band によるマーチ編曲がレパートリーに定着しているが、当然ながら、グレン・ミラーの民間バンド時代のムーンライト・セレナードなどと違って、これが日本に伝わったのは敗戦後だと思われる。いったいどういう経緯で、このマーチが日本の吹奏楽に定着したのか。占領軍の放送や実演が最初だろうけれど、占領下でこのマーチがどういう風に受け止められていたのか……。

(中学生の頃から吹奏楽で何度か演奏したが、ジャズなのにジャズらしくなく、何なんだこれは、と思っていた。AAF Band や日本の敗戦後のジャズなどの経緯を知らない者には、何が嬉しいのかよくわからない曲だと思う。

ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーもピアノとジャズバンドのコンチェルトという文脈依存の危うい均衡で成立した作品だし、バーンスタインのマルチ・タレントで何が主たる業績なのか見極め難い生き方に至るまでの、まだ1990年以後のような一人勝ちの「帝国」ではなかった頃の合州国は、これという決め手なしに折衷的な合わせ技で「短い20世紀」を生き延びたと見た方がいいのかもしれない。メイン・カルチャーがそんな状態だから、アンダーグラウンドに「透明人間」(アレックス・ロス)がはびこったのでしょう。「帝国」になってからまだ20数年と日が浅いから、変なおっさんを代表に選んじゃったりするわけだ。危なっかしい国ですよ。)

そして他方で、AAF Band は負けた日本だけじゃなく、勝った連合国にも、戦時中にプロパガンダが電波で降り注いでいたことを示している。1981年のインディー・ジョーンズ・シリーズのテーマ曲(raiders は盗賊のことだそうですね)の冒頭のトランペットは、明らかにセントルイス・ブルース・マーチを下敷きにして、グレン・ミラーのマーチが高音から駆け下りるところを低音から駆け上がる音形にひっくり返しているが、1932年生まれで日本流に言えば「少国民」世代のジョン・ウィリアムズがこういうマーチを書いたのは、この物語が第二次大戦中のナチスを敵役にする設定だからだろうと思う。ジョン・ウィリアムズは、亡命ユダヤ人のシンフォニックな映画音楽だけじゃなく、グレン・ミラーの AAF Band の戦時中のプロパガンダの音楽的記憶をも継承していることになりそうだ。