[6/1,2 記事の真ん中あたりに、あれこれ補足しております。]
マスコミ報道だけを眺めていると、何がどう問題なのか、さっぱりわからなくなってしまう今日この頃。
先日、こういうご指摘を見つけました。
たとえばプッチーニのオペラ『蝶々夫人』が、イタリア人らによるアメリカ人批判でもあることは、存外理解されていない。[……]台本作者(リブレッティスト)らには、アメリカ人ピンカートンを悪人として描くという意識があったことは、プッチーニの楽譜の出版者の手紙に「ピンカートンはアメリカの卑劣な灌腸剤」という罵言があるのでもわかる(モスコ・カーナ『プッチーニ』)。しかし、日本の研究者は、日本対西洋、オリエンタリズムといった枠組でばかり、このオペラをとらえる傾向が強い。(小谷野敦『日本論のインチキ』、161-162頁)
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武智鉄二が関西歌劇団で「お蝶夫人」を演出した1954年の春には、ちょうどイタリアからテノールのタリアヴィーニが来日して、話題になっていました。タリアヴィーニは関西歌劇団の「お蝶夫人」も観たようです。
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で、武智鉄二は、タリアヴィーニから聞いた話として、「ピンカートンをアメリカとヨーロッパでは演じ分けている。アメリカで歌うときには純朴な若者として演じるが、ヨーロッパでやるときには、愚鈍で傲慢な男として歌う」という意味のことを書いています(今、出典がすぐに見つからないので、引用は不正確ですが)。
こういう話を、我が意を得たり、だから私の演出は間違っていなかったのだ、という文脈で披露するから、武智鉄二は反発を買っていたようなのですが、「アメリカ人は大雑把で、酷いことをする」というヨーロッパからの批判的な視線に彼は気づいていたようです。
武智鉄二は、占領下の芝居興行でGHQと交渉する経験もしたようですし、60年代に、映画「黒い雪」に猥褻容疑がかけられた時には、当局が本当に問題視したのは性表現ではなく、米軍基地批判がタブーに触れた、と受け止めていたようです。アメリカの属国になっている日本、という認識があったようですね。
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(関西歌劇団での武智鉄二のオペラ演出については、
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20080222/p1
以来何度かあれこれ書いておりますので、「武智鉄二」でブログ内検索するなどして、過去ログをご参照ください。)
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[補足]
「蝶々夫人」のもとになったベラスコの英語の芝居をプッチーニが観たのは、日英同盟が結ばれて日本が黒船来航以来の不平等条約を撤廃できつつあった頃=日本が「紙と木の家に住むお伽噺の国」ではなくなりつつある時期でした。プッチーニのオペラにおける蝶々さんは、ただのオリエンタルな、西洋人にとって一方的に都合の良い女性ではないわけですが、これは、プッチーニ個人の女性観の投影だけではなく、日本をめぐる情勢の変化が時代背景としてあったかもしれない、ということです。
(ついでに、「蝶々夫人」の解説を読むたびに、プッチーニに日本の歌を教えたとされる「当時のイタリア大使夫人の大山久子」がどういう人なのか疑問だったのですが、彼女は、旧長州藩士で明治政府官僚になった野村素介の娘で、夫は旧薩摩藩の外交官、大山綱介。名前から西郷家とも姻戚関係のあった大山厳の親族だと思われます。蝶々さんは没落士族の娘で、いわば歴史の「負け組」と設定されていますが、大山久子女史は明治維新の見事な「勝ち組」。当時の欧州には、そうした勝ち組明治藩閥政府の派遣する日本人が何人もいたわけで、プッチーニは、概して海外で相場無視の大金を使う傾向のあるバブリーな渡欧日本人の本国での立場をある程度理解していたはずです。そして負け組女性が意地を貫く「蝶々夫人」をオペラ化しようとしていたのですから、欧州社交界を泳ぐ「勝ち組」日本人には、おそらくあまり積極的な関心はなかったと思われます。プッチーニは有名人ですから、その種の、有名作曲家に近寄ってくる社交家のあしらい方を当然心得ていたはず。
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上の本によると、大山久子は川上貞奴一座をイタリアで世話したこともあったらしく、世話好きで、ちょっとお節介気味の女性であったように思われます。オペラ・ファンの奥様方が感情移入しやすい存在ではありますが、「蝶々夫人」成立における彼女の役割は、あまり過大評価しないほうがよさそうです。
プッチーニが大山久子女史に会う前から所持していたと思われるSPレコードも既に復刻されていますし……。
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耳障りのいい話を簡単に信じてはいけない。オペラは社交界の娯楽だけれども、社交界の人脈のなかで創られるわけではない、ということですね。)
それから約50年経って、日本が戦争に負けて、日本の歴史書では、どういうわけか、United Nationsを、日本が戦争に負ける以前の文脈では「連合国」、日本が戦争に負けたあと現在までの文脈では「国連(国際連合)」と訳し分ける習慣が続いています。この言い換えは、もちろん「自衛隊」と「軍隊」の言い換えに似ているわけですが、同時に、ピンカートンが妻と一緒に長崎へ戻ってくる以前の、三年間ひたすら待ち続けている間の蝶々さんの脳内幻想(アメリカが契約社会で個人の自由意志を尊重する国である云々という第2幕のヤマドリを追い返すときの小芝居)にも似ているかもしれません。(その後、蝶々さんは、すべてを悟って覚醒して、悲劇的結末を選ぶわけですが。)
もちろん、蝶々さんがピンカートンから見たら現地妻(のひとり?)だったように、「連合国」と「国連」のけなげな言い換えが非日本語圏に知られているはずはなく、「国連」と呼ばれるものは、第二次大戦戦勝国(「連合国」)の枠組みが今も存続しているということであるわけですが、
一方で、日本の「羅生門」などの映画をいち早く顕彰したのは、ヴェネツィアとベルリン(旧三国同盟の二国)の映画祭ですし、NHKが番組の質が高いことを宣伝するためにしばしば利用するのは「イタリア賞受賞」というクレジット。1950年代に放送局が専用スタジオを作って、電子音楽を推進したのは、ケルンとミラノと東京(NHK)でした。戦争に負けた三国のほうにも、戦後連帯できる部分が残っていたと言えそうです。(境遇に共通点が色々あるわけですから、当然といえば当然ですが。)
戦後の日本にヨーロッパの演奏家の来訪が復活したときには、戦前以来の興行元との関係が活用されたようですし、NHKイタリア歌劇公演は戦後日本のオペラに強いインパクトを与えたわけですが、イタリアがオペラの本場だからイタリアから人を呼んだ、というだけでなく、日本とイタリアの戦争中以来の人のつながりが、この企画の背景にはたぶんあったのだろうと私は想像しております。
……と、こういう風に考えていくと、新国や、びわ湖ホールの沼尻さんは、日本から発信する「読み替え」新演出として、蝶々さんとピンカートンの結婚契約を日米安保条約や米軍基地敷設と重ね合わせたり、ヤマドリが自衛隊の格好をしてやってくるのを「憲法九条」信奉者の蝶々さんが福島瑞穂の口ぶりで追い返すとか、ピンカートンが核ミサイルを搭載した空母で再来日したり(あるいはケイトがトマホークミサイルの着ぐるみで登場したり(笑))、という「蝶々夫人」があってもいいのかもしれませんね……。
そうなると、二人の結婚に反対するボンゾは、ただのわからずやではない意味づけをせねばならなくなるでしょうから、物語は随分立体的になりそうですし。
(ドイツのいわゆる「読み替え」演出は、中小劇場がウィーンやベルリンやバイロイトの大劇場の権威を揶揄する業界暴露内幕モノのような含みがありそうです。ドイツ以外の場所にそれをもちだしてもあまり意味はないと思います。日本のクラシック業界の西洋幻想(「蝶々夫人」前半の理想化された西洋式の恋愛・結婚の幻想を生きる蝶々さんみたいな人は少なくないでしょうし)に自分たちで決着を付けるような「読み替え」のほうが、よっぽど刺激的だと思うのですが……。
クラシック系ライターさんのブログなど拝見していると、(主として男子ですが)軍事ものなどがお嫌いではない方が結構いらっしゃるようですし(なんといっても怪獣映画の伊福部昭が大人気な御時世ですし)、一般のお客様はともかく、オタク・サブカル世代の40歳前後関係者に受けるのではないでしょうか。「トゥーランドット」はフリッツ・ラングの「メトロポリス」だ、という思いつきをびわ湖で演出なさった粟國さんなどにお願いしてみてはいかがでしょう。)
このDVDブックは、武智鉄二の「お蝶夫人」演出の翌年公開の日伊合作オペラ映画が入ってます。日本人形みたいな若き日の八千草薫、日本人音楽家と欧州楽壇を橋渡ししたキーパーソンとされる田中路子などが出演。武智鉄二は演出がなっていないと酷評していますが。蝶々夫人 MADAMA BUTTERFLY - DVD決定盤オペラ名作鑑賞シリーズ 8 (DVD2枚付きケース入り) プッチーニ作曲
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初代「ゴジラ」封切は、武智鉄二演出の「お蝶夫人」と同じ1954年。アメリカ水爆実験による第五福竜丸の被爆は同年3月。朝鮮半島では前年7月まで戦争がありましたし、日本共産党はまだ武装闘争路線を公式には掲げていました。(うたごえ運動を生み出すことになるソフト路線に転じるのは1955年。)「ゴジラ」のなかの台詞にもあるように、戦争はつい最近の生々しい記憶であって、まだこの先長く平和が確保されるとは思われていなかった時代です。武智鉄二演出の「お蝶夫人」はそういう時代に生まれました。武智演出は、歌舞伎仕込みの毅然とした所作で日本人が動いて、ピンカートンとシャープレスの外人コンビは棒立ちでことの推移を茫然と眺めるという趣向だったようです。独立を果たした日本の舞台に、卑屈ではない日本人の姿を現前させた、と言えるものだったのだろうと私は思っています。ほかにも多大な犠牲を払って「七人の侍」が完成したり、1954年は戦後史のなかでも表現者のテンションが高い節目の年だったような気がします。
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で、60年安保に至る左翼学生運動の変遷、上層部と現場の軋轢は、この映画のような感じだったのかな、と私は想像しております。片山杜秀さんが『音盤考現学』でショスタコーヴィチの使い方に時代性が感じられると指摘した映画ですね。
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「メトロポリス」公開は1927年で、「トゥーランドット」未完のままプッチーニが亡くなったのは1924年。
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[補足おわり]
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話は変わりますが、前に少し書いた大原総一郎と沖縄の縁。外山雄三に「沖縄民謡によるラプソディー」の作曲をアドヴァイスしたのは大原総一郎らしいのですが、なぜ、倉敷の大原総一郎が沖縄なのか。
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100421/p1
倉敷の工場には、戦争中に沖縄の女の子たちが集団で勤労奉仕に来ていて、そこで大原総一郎は沖縄の歌や芸能を知ったようです。
戦後、沖縄がアメリカ領になってしまったときに、彼女たちが倉敷で暮らしていけるような方策を考えたこともあったのだとか(結局、彼女たちは、沖縄へ戻ることができたらしいのですが)。
日本とアメリカ、本土と沖縄の間には戦後本当に色々なことが起きていたのですね。何月何日までに決着、という話ではない。
*この項は、次のエントリーへ続きます。