「蝶々夫人」はカルスタ・ポスコロの恰好の題材で、ロティ「お菊さん」やオペラ「ミカド」などを参照しながらロングの小説、これにもとづくベラスコの戯曲(これをプッチーニはロンドンで観た)を読むのが流行っているが、「蝶々夫人」が、宮さん宮さんやお江戸日本橋やかっぽれを原曲の文脈と無関係に引用した功罪については、随分前に徳丸先生が書いて以後、あまり進展がないように見える。
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ひと頃は、イタリア大使夫人の大山久子(川上貞奴の欧州巡演を助けたこともあったらしい)がプッチーニに接触した事実に着目する議論もあったが、どうやら、彼女がアプローチする前からプッチーニは独自に日本の音楽の資料を集めていたらしい。
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それじゃあ、プッチーニは具体的にどのような資料で日本音楽を知ったのか?
フレッド・ガイズバーグの1903年の録音(レコード黎明期の日本の音楽の最古の録音)をプッチーニが入手していたのではないか、という説がちゃんと検証されたのか、私はよく知らない。(「蝶々夫人」作曲当時に存在したのはこの録音くらいだとは思うが。)
ほかには三木書店(のちに三木楽器を創業した三木佐助の店)から出ていた『日本俗曲集』(海外の需要を想定したのか英語の序文と目次が添えられて曲名は日英併記)が注目されているようだ。
国会図書館のデジタル・ライブラリーを見た限りでは、『日本俗曲集第1集』は1891年の初版、1892年の再版、1893年の四版で、収録曲や版組が少しずつ違う。「みやさんみやさん」「お江戸日本橋」など、プッチーニが使った旋律が揃うのは1893年の版になってからのようだ。
プッチーニの遺品等と照合してこのあたりを詰めれば、しかるべき研究になると思うのだが、誰もやっていないのだろうか。
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『日本俗曲集』の編者は、1888年に第四師団軍楽隊員として大阪に着任したばかりの永井岩井(第四次第軍楽隊設立時の楽隊長だったらしい)と小畠賢八郎(隊長時代に菅原明朗が作曲を学んだことでも知られる)だし、日本における五線譜トランスクリプションの歴史に、三木佐助(のちにベルリンから帰国した山田耕筰をサポートすることになる)がしかるべき位置を占めているとしたら、関西洋楽史としても面白いトピックだと思うのだが。