sports は何がどのように desportare なのか

スポーツはビデオゲームに先駆けて随分前から大学にポストを確保しているし、メディア・イベントとしての隆盛を受けて、スポーツ(自ら競技しない観戦を含む)の社会学もさかんなようだ。遊びの社会学の井上俊先生が武道とスポーツの社会学に進んだのがその典型だろうと思う。

sports の語源は desportare。荷を運ぶ(portare)の否定形(des-)で、重荷を降ろす→気を晴らす/憂さを晴らす、ということのようですね。

しかし、sports は具体的に何がどのように desportare なのだろう。20世紀以後の身体観に照らすと、身体を動かすことによる開放感が desportare なのかなあと思うけれど(「あじわいの美学」にそのような話がありませんでしたっけ)、貴族の sports (乗馬やフェンシング)は、武術の基礎技術ではあるのだけれども命のやりとりをしない訓練であるところが desportare なのではないか、という気がしないでもない(ノルベルト・エリアスが「文明化の過程」としてスポーツに注目したのはこの文脈だろうと思う)。

エリアスの文脈は、ホイジンガ流のホモ・ルーデンス論と合流して「遊び/ゲームとしてのスポーツ」という観念を支持しそうだが、desportare の語の理解として、これで大丈夫なのだろうか?