競技音楽の時代

ゲーミフィケーションというキラキラ用語で言われていることを、game という言葉を外して言い直すとどうなるかの一例だが、ここ数年の日本のクラシック音楽で何が起きているかというと……、

補助金漬けの体質を脱して自活せよ、という明示的・暗黙的な大号令が各所から発せられて、これ自体は世界的な潮流だが、日本の関係者がどうしたか、というと、音楽を、世間で好調であるらしいスポーツに似た「競技」に擬して、システムを組み替えようとしているのだと思う。本家ヨーロッパにはまだ「アート」の概念がありそうだし、北米なら「カルチャー」や「ホビー」の領域を頼ることができるのだろうけれど、この島ではどちらも弱くて、スポーツだったら、オリンピックでも各種競技会でも、それなりにワールドクラスな人材を出すインフラがあるので、これが手っ取り早いモデルになった、ということだと思う。(吹奏楽のように競技性の強い隣接ジャンルがさかんでもあるし。)

文学や美術も似たところがあるんじゃないだろうか。

たとえば批評の場所がなくなりつつある(ように見える)というのは、競技だったらルールがあって勝敗がフィールド内で自ずと決まり、判定は厳正な審査・審判としてしかるべき機関が行うはずで、観客があーだこーだと評価を下す余地はない、ということの類推だと思う。観客の仕事は「感動」や「感想」を語ることであり、私設審判団めいた批評とか意味わからん、ということだと思われる。

そして音楽ライターの台頭は、スポーツライターのそれに似ている。競技は、批評するものではなく、プレスパスを持った者が「取材」する対象であり、それに尽きるというわけだ。

「フェアプレイ」の精神でトレーニングを積んだ日本のオーケストラがドイツの地方新聞でけなされる、という事態が起きたときに、音楽ライター山田治生が「それは審判の地元笛だ」と言い放ったのは、典型的な「競技音楽」の発想だろう。

でも、音楽は競技じゃない。何らかのルールを自前で想定して「フェアプレイ」に徹するのは、そうしたいならやってもいいが、残念ながら、音楽に厳正な審判は存在しない。

そんなものが存在しないにもかかわらず、各々好き勝手な判断が積み重なったときに、おおむね、そんなところだろう、という線に落ち着いてしまうのがアートの面白いところなのだから、「ゲーム/競技」モデルには無理がある。

そうは言っても、こういうことは戦争と同じで一度動き出したら行くところまで行かないと止まらないだろうから、一方で、「競技」モードで勝つしかあるまい。

(ゲームではないものをゲームとして遊ぼうとしても、プレイ自体が破綻するか、あるいは、あほらしくて、みんなそのうち飽きるor止めるだろうしね。)

そしてこの種の、あほらしいことに当面はつきあわなければならないんだなあ、というのは、哲学で言うアンチノミーとは違うと思う。売れるメジャーでありつつマイナーであれ、みたいな格言は、哲学ではなく単なる処世術だ。

世紀転換期に、ライヴvs録音、みたいな線引きであれこれ言っていた頃とは、世の中のモードがはっきり変わった感触がありますね。