自己模倣と革命歌の引用

ショスタコーヴィチの交響曲第12番は第5番の焼き直しのような自己模倣。第5番自体がベートーヴェンとチャイコフスキーを掛け合わせた一種のパロディなのだからコピーにコピーを重ねて、ストーリー展開はスムーズだし、能力のある作曲家が12曲も交響曲を書いたら技量は上がる。オーケストラのヴィルトゥオーゾ的なショウピースとしては、途方もない曲ではないと思う。(もっと演奏されてよさそうなのにそうなっていないのは、「1917年=レーニン/スターリン交響曲」というメッセージ/プロパガンダだからなんでしょうね。)

そしてこういう風にシンフォニーのフォーマットが快調すぎるくらい透けて見える音楽と並べると、交響曲第11番の異様さが際立つ。

導入部の調性の枠内で進行しているのにあっちこっちで闇に足を踏み込む不気味な和声だけでも尋常ではないと思うけれど、これは、革命歌をつなぎあわせた「歌の交響曲」なんですね。軍歌や宗教歌の伝統に連なる革命歌と、シンフォニックなオーケストラという人工的な音響合成装置の様式・書法の対立が、民衆に重火器が襲いかかる血の日曜日事件と重ね合わされている。

「歌」を連ねてシンフォニーを書く、というのは、第5番/第12番とはまったく別系統の課題で、作曲家として興味をそそる仕事だったのではないだろうか。ショスタコーヴィチがこのあと独唱や合唱を伴う交響曲を手がけるのは、この革命歌による交響曲の経験があったからこそではないかと思う。20世紀の交響曲には、これと平行する事例がありそうだし、ベートーヴェンの第九にはじまるカンタータ交響曲の系譜とは違うタイプの歌と交響曲の組み合わせ方をしているのだから、交響曲第11番は、交響曲の歴史にしかるべき位置を占める特異点ではないかと思う。

オーケストラのアンサンブルのたがが緩みかけている演奏だったのは否めないけれど、こういう企画で2つの交響曲をくっきり描き分ける仕事は井上道義にしかできないと思う。オーケストラの性能を再度チューンアップするためには、なるほど別の指揮者が必要なのかなあ、と聴きながら思ったのだけれど、でも、家に帰ってしばらく考えているうちに、こういう事態の責任を全部指揮者に負わせるのは、根本的解決というより対処療法のような気がしてきた。

指揮者に責任を負わせることで、オーケストラの体質的な問題が不問に付されて先送りされていいのかどうか。大事な場面のフルートとクラリネットのソロのピッチがあんなにおおっぴらに合わないのは、指揮者が悪い、というだけのことではなさそうな気がする。

(それにしても、ショスタコーヴィチが当局との緊張関係のなかで書いた「戦いの交響曲」の合間の休憩時間にロビーで東条氏をみると、「中央から偵察に来たKGB」みたいに見えてしまいますね(笑)。)