歴史と歴史学、SFと宇宙物理

歴史好きは史学科に行ってはいけない、と煽る人がいるようだが、この理屈を敷衍すると、SF好きは宇宙物理学科に行ってはいけない、ということになりそうだ。

でも、SF好きの宇宙物理学者は珍しくないよね。歴史好きな歴史学者も普通にいそうだ。

歴史好きと歴史学、SFと宇宙物理はたぶん両立する。

一方、宇宙物理を習得するためにはたくさん勉強しないといけないから、やりたくても知識や能力が足りず、SFが大好きでも宇宙物理の専門家にはなれない、というケースがありそうだ。

当該のアジテーターは、(もし実在の人物なのだとしたら)歴史が大好きでも、歴史学を修得するための勉強がいまいちで、歴史学者にはなれそうにない、というだけのことなのではないか。

歴史学なんてやっても就職には役立たないというが、宇宙物理も、そのまま就職には活きないよね。いわゆる「理系」を出てエンジニアになる人が、大学での専門をそのまま生かすことができているケースは、私が知っている阪大の同窓生をみても、むしろ稀だと思います。

抑圧の解除法

クララ・ヴィークが、奇人変人としか言いようのない独身時代のロベルト・シューマンのピアノ音楽をどう受け止めたのか、という話の最後に、「子供の情景」第1曲をクララの晩年の弟子が弾くのを聴いて、この曲の一見平易だけれども繊細に考え抜かれた書法を簡単に分析した。

そういえばこの曲は、岡田暁生が美学会全国大会の口頭発表で分析したことがあったんだったと思い出した。私がまだ学部の3年で研究室に入りたての頃で、岡田暁生は博士課程の3年目。学会本番には行けなかったが、ゼミでの予行演習を聴いて、楽曲分析というのはこんなに鮮やかに作品の魅力を輝かせるものなのかと、魅了された。

この発表は美学会の機関誌には採用されず、内容を拡張した論文が、のちに阪大美学のフィロカリアという雑誌に載った。

随分前に書いたと思うが、シューベルトやウェーバーのピアノ曲と格闘していた頃は、この岡田暁生のシューマン分析がお手本・目標で、こういう文体・手つきでロマン派のピアノ音楽について書き、分析できるようになりたいものだ、と、そればかりを思っていた。

博士課程の終わり頃に、フィロカリアに何か書け、と言われてウェーバーのピアノソナタを分析したときには、既に岡田暁生は阪大の助手から神戸大に転出していたが、それなりに頑張って書いて、このときの論文でようやく、作品分析を文章にまとめるやり方・文体を自分なりに見つけたような気がした。

ただし、そこで何となくやりたいことはひととおりやれてしまった気がして、その先はほとんど成果を出せなくなった。

ロールモデルを設定して模倣する勉強法(どこかしらホモソーシャルな嫉妬の原理ですよね)は、ある水準までは行けるけれど、それだけでは頭打ちになる、ということだったのだろうと、今は思う。

今回、クララ・ヴィークを導入することで20年後にその先へ話を進めることができた気がしているのだが、

そういえば、大学院進学前に岡田暁生に呼び出されたときに、当時彼は伊東信宏と二人でシルヴァン・ギニャールに楽曲分析を習っていて、「子供の情景」を徹底的に分析したと言っていたから、シューマン論はギニャール仕込みの分析だったのだと思う。

で、前に書いたようにギニャールの祖母がクララ・シューマンの弟子だというのが本当なのだとしたら、それってつまり、岡田暁生は、シューマンから直系でつながったところで「子供の情景」を教わったことになるんじゃないか、と、遅ればせながら、さっき気がついた。

だとしたら、クララがロベルトのピアノ曲をどう捉えていたか、という話を導入するのは、議論を先に進めたというよりも、当時は見えていなかったミッシング・リンクがようやくつながった、ということなのかもしれない。

(女性パートナーの役割を視野に収めることで、謎めいた男性芸術家を解読できるようになる、というのは、ホモソーシャルな抑圧の解除法として、少々わかりやすすぎるとは思いますが、こういう形で学生時代にシューマンに絡め取られて、中年を過ぎて解法がわかる、というのは、芸術と実人生が絡まり合う傾向のある「音楽のロマン主義」とのつきあい方として、結果的にはラッキーだったのかもしれない。

知っている人は知っているわけだが、変人岡田暁生の奥様は、これまたよくできた方で、何かと七転八倒する学者の傍らで泰然自若としているパフォーマー兼作曲家でいらっしゃるわけですね……。

そしてこの因縁話は、クラシック音楽をめぐる諸々に決着をつけてセミ・リタイア状態の岡田暁生(彼にクラシック音楽をインストールした父・岡田節人は既に没した)が、ブラザーな黒人共同体で伝承されていることになっており、創作が同時に即興的なパフォーマンスであるようなジャズにはまりこんでいく経緯を納得するときにも、多少は役に立つかもしれない。)

ショパンとドイツとフランス官僚

ロベルト・シューマンをクララ・ヴィークの側から捉え直すのに続いて、パリのショパンについては、「ドイツ派の亡命ポーランド人」と見るのがいいのではないかと思っている。

ワルシャワにおけるショパンが「ドイツ派」だった、という指摘は以前からあるし、シューベルトやウェーバーやフンメルのピアノ音楽の影響を個別に色々指摘できる。それだけでなく、ショパンによる「発明」だとされる「音楽としてのバラード」はナショナリスティックな文脈でミツキエヴィチとの関係があれこれ議論されてきたけれど、ゲーテやシラーの「文学としてのバラード」に作曲したシューベルトの「歌曲としてのバラード」があってはじめて、器楽バラードをショパンが書きえたのではないか、と最近気がついた。

(ショパンのバラード第1番はシューベルトの魔王と同じg-mollだし、バラード第2番はドイツの変人批評家シューマンに献呈されている。)

そして大きな文脈としては、19世紀フランスのブルジョワの台頭は、従来のフランス宮廷におけるリュリ以来のイタリア人音楽家の活躍に終止符を打って、ドイツ人/ドイツ系音楽家の流入を促進したと言えそうに思う。なんといってもオペラ座にベルリンのユダヤ人マイヤベーアが君臨したのだし、カルクブレンナーはドイツ人、プレイエルやシュレザンジェはドイツからやってきた音楽業者だし、リストやショパンもドイツ系の音楽家に学んでいる。

(スタンダールがロッシーニを礼賛したのは、ナポレオンを追放したドイツが憎くて、その思いが音楽におけるイタリア軽視&ドイツの台頭への反発と絡まっているように見える。)

パリのバレエに「ルイ14世以来300年の伝統」を言えないように、フランスの音楽に「ブルボン王朝以来の連続性」を言うことはできないと思う。

唯一継続しているものがあるとしたら、官僚制が前例踏襲を上意下達のヒエラルキーで盤石に維持した、ということなのではないだろうか。

西国の下級藩士が成り上がった明治政府はドイツ帝国をお手本にする国作りに帰着したけれど、旧士族には、結構フランスびいきがいるように見える。表向きは「エスプリ」といった19世紀以後の価値観を語るけれど、フランスの知識人のほうが、ドイツの教養市民よりも、むしろ「宮仕え」の機微をよくわかっている、そんな見方がありうるのではないかと思う。

(尾張藩(←豪勢な土地柄だったらしいことを先日のブラタモリでようやく知った)の藩医の末裔であるらしい柴田南雄は、諸井三郎に師事して、十二音技法とかバルトークとかマーラーとか、ドイツorハプスブルク領内の音楽に軸足を置いた人だったことになっているけれど、あれは、自分の体質に合わない音楽を義務感で勉強したんじゃないか、という気がしてならない。スマートな立ち回りは、ガリ勉で教条的な池内友次郎より、はるかにフランス風に見える。)

ポストモダン思想が、在野の批評といいつつ、案外大学の制度的な知にフィットしやすい、という最近のあたりまで、フランス的な「宮仕え」は日本の「宮仕え」と相性がいい状態がずっと続いている気がする。

誰が中世を「闇」だと考えたのか?

ギリシャ神話は紀元前に栄えた文明の古層だが、ローマ帝国/中世キリスト教会のラテン語文化で育った知識人たちにとってギリシャ語古典文献の解読はキラキラ輝く刺激的な「新しい知識」であり、神々と英雄たちの活躍をキリスト教的な世界観に組み入れることは、アクチュアルな問題、現代人が取り組むべき急務に思われた。

いわゆるルネサンスは、そのような都市の知識人のトレンドとして始まった、という理解でいいのだろうか?

(在外日本人というものが、昭和の24時間闘うビジネスマンにとっては自明の日常であったにもかかわらず、「就職氷河期」に国内に縛り付けられていた世代にとっては、功成り名を遂げたあとの在外研究でようやく知り得た「新事実」、「世間に訴えるべき最新課題」に見えているのと同じように。)

観察・五感の肯定であるとか、おそらく黙読・瞑想というメランコリックな態度が生み出したのであろう「内面」であるとか、ルネサンスは、有閑知識人のマッチポンプ的な一過性のトレンドに終わることなく、それこそ「誤配」的な帰結をもたらしたがゆえに、トレンドとは違う扱いを受けてはいるわけだが、そうした経緯は、おそらく中世キリスト教の「闇」からギリシャ的な「光」への転換という明快な構図に収まる話ではない。

薔薇の名前 The Name of the Rose [Blu-ray]

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そんなことを考えながら見ると、やっぱり「薔薇の名前」は面白いね。

格言

一斑を見て全豹を卜す(たまたま最近あった事件に言及して総合的判断をせず「だから日本の警察は」と言う類)
-- via twitter 小谷野敦

SNSのコメントのテンプレートだな。

結果を面白がる前に

タイトルと内容紹介から判断すると、こっちの本が政治学としての立場や方法を明示した出発点なのだろうと思われる。本気で「音楽学者も負けてはいられない」と対抗意識を燃やすのであれば、そのような成果をあげることができた前提、先方の装備を具体的に知ることが先決だろう。

文化浸透の冷戦史: イギリスのプロパガンダと演劇性

文化浸透の冷戦史: イギリスのプロパガンダと演劇性

だからまずこっちを読みたいのだが、少々高い本ではありますね。

文化政策の演劇性、という着想自体はむしろ常套的に思える。3年後に、マーケットをリサーチして、従来そのような概念を当てはめて論じられることのなかったジャズを題材に選んだところが、なかなか頓知が効いている、ということになるのだろうか。

著者が釣りたいと狙った人たちが目論見どおりに次々見事に釣られているようで、5年前に與那覇潤が「中国化」でオッサンたちを釣った故事が思い起こされる。

「オッサンたちがワアワアいってるエコー・チェンバーに反響を広げるのは案外チョロい」。そのように考える若い世代が出るべくして出てきただけのことではなかろうか。

サロンのささやきとエコー・チェンバー

エコー・チェンバー(反響室)に閉じ込められてしまったときに、どうすればいいか。

故事を繙くとしたら、キリスト教の典礼は城壁で囲い込まれた中世都市(=ジェントリフィケートされたゲーティッド・シティの原型だよね)に石造りのワンワン響く建物を造るエコー・チェンバーの行事の典型なわけだが、他方の世俗の歌を伴奏する楽器は、リュートのように概して音が小さい。

(西洋世俗音楽が打楽器を排除して発展したのも、エコー・チェンバーの音楽だからでしょう。)

簡単に言うと、反響をコントロールするためには、反響を生み出す「部屋の壁」まで音がとどかなければいいわけだ。

近世になって、輝かしいエコーを生み出すチェンバロの傍らで、主にドイツでクラヴィコードが好まれたのは、「部屋の壁」まで音が届かない楽器だからではないかと思う。

そして19世紀市民社会で熱病のように流行したワルツは、抱き合ったカップルが相手の「耳元でささやく」ことのできるダンスだった。

ジョナサン・スターンの聴覚文化論がヘッドセットに着目したのも、それが、個人の耳に直接「遠くの音」を届ける装置だったからですよね。

聞こえくる過去

聞こえくる過去

西欧の社交を特徴付ける上品なささやきを、「友」(信頼できるサロンの招待客)と「敵」(都市の城壁の外の民衆)を分断する忌まわしい「ディスタンクシオン」だと決めつけて、マスメディアを通した「デカい声」で塗り込めてしまうのは、やっぱり、やりすぎだったんだと思います。

リベラルを標榜する人たち、心ある憂国の右翼を標榜する人たちは、適切なささやき、という作法をまだ覚えているのだろうか?

イノセント Blu-ray

イノセント Blu-ray

岡田暁生は、リストやショパンのパリ社交界を説明するときにこの映画のサロン・コンサートのシーンをみせるのがおきまりだったが、蓮實重彦は、山田宏一・淀川長治との長い長い座談本で、この映画の「ささやき」に着目していましたね。

映画千夜一夜〈上〉 (中公文庫)

映画千夜一夜〈上〉 (中公文庫)

映画千夜一夜〈下〉 (中公文庫)

映画千夜一夜〈下〉 (中公文庫)

ヴィスコンティの映画は英語吹き替えでの国際配給を前提に製作されていたようですが、この最後の作品は、イタリア人俳優を揃えて、全編、イタリア語でささやかれている。

(リマスタリングされたヴァージョンのBlue-Lay/DVDは、以前のDVDのようにピアノのピッチが高くなることがないのが嬉しい。チャプターの切り方がおおまかなので、特定シーンの頭出しは面倒になりましたが。)

バレエの歴史の断絶に耐えること

こういう風に表にすると、パリのバレエがルイ14世から連綿と続いているとは言えないことがわかる。(今回は、まだ18世紀のバレエが抜けている状態だが。)

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ポワントで立つ技法をタリオーニ父子が1831年のオペラ「悪魔ロベール」と1832年の「ラ・シルフィード」で広めたのは有名だが、振付の変遷を見ていると、アラベスクやアティチュードのような定番のポーズを体系的に用いる振付はプティパ以後なのではないかと思えてならない。

パリ・オペラ座のロマンティック・バレエは、キャノナイズされたプティパ以後のクラシック・バレエとは随分様子が違ったのではないだろうか。

ただしこの表は、断絶と「伝統の発明」をなじるのではなく、そうした要因を括弧にくくった先で、何が身体というメデイアを介して後世に伝わったのか、そこを考える準備のつもりです。

普遍を志向するリベラルアーツにとって、伝承の途絶は物事の終わり、行止りかもしれないが、一般に、歴史研究は事態が収束したところから始まる。

人間は必ず死ぬ。でも何かを残す。有限の領域に踏みとどまるヒューマニティーズにとって、伝承の途絶は、終わりではなく始まりだと思うのです。

シニカルな敗北主義とも頑固な信仰信念イデオロギーズとも違う仕方で終焉と付き合うこと。政治的ではないことの政治性は、その地点においてこそ成立するんじゃないですかね。

市民の面前で芸術を華麗に暗唱すると嫌われる

宮廷の楽人たちは貴族の御前で詩や音楽を暗唱した。

一方、19世紀の自由人芸術家は、市民の中で自らも市民として詩や音楽を黙読する。その態度を可能にしたのが出版文化の整備・発展なのでしょう。

現代の情報社会が直接の対面ではなくスマホの凝視を強いるように、そして草の根広報のいわゆる攻めの姿勢がこの傾向を加速してオーディエンスを囲い込むように、19世紀の新興市民たちは、目の前の芸術と芸術家に対面するのではなく、書物の紙の表面の文字列を凝視するのが教養だと信じた。

そして市民の面前で華麗に芸術を暗唱するヴィルトゥオーソ達は、次第に煩わしい存在だと思われるようになる。

大まかなスケッチとしてはこんな感じか。

教養市民の芸術論の延長で情報社会のアートを語る東大系にとって劇場という装置が鬼門になったり、SNSで大阪芸人バッシングが続くのは、おおむねこの図式で説明できそうだ。

ロベルト・シューマン・パブリッシング:19世紀出版バブル時代の「外国」「読書」「批評」「哲学」

再び時間がないので各々簡潔に。

(1) 贅沢な留学

細かいことはともかく、幕末の幕府ご一行の洋行や長州の若手の隠密行動から先ずっと、公費であれ私費であれ、「生存のため」でない留学、単なる蕩尽である自分への投資として留学がなされた例は、それほど多くないのではなかろうか。

(2) ロベルト・シューマン・パブリッシングの混乱

傍らでのクララ・ヴィークの泰然自若ぶりと対比すると、20代のシューマンは右往左往七転八倒しており、「影響の不安」を言いたくなるのもわからないことではないが、あれは、ショパンやベルリオーズ/リストをいち早く発見したように、新聞雑誌と楽譜の両面での19世紀の出版バブルの初期に情報の爆発が起きて、書店主の息子でライプチヒ在住の大卒インテリがその爆心地でもみくちゃになったのだろうと思う。

出版バブルの渦中に飛び込む人がシューマンを引き合いにだした好例が、『音楽と音楽家』の翻訳をひっさげて内務省の役人から音楽評論家になった吉田秀和だろう。

(そして今なら、アルテス・パブリッシングのような会社を興すか、そこの看板ライターになるだろうなあ、というのがこの記事のタイトルのもじりの由来なのは言うまでもない。)

(3) 音楽における暗唱と黙読

鍵盤音楽は、「読書」というより「暗唱」の文化ではないかと前に書いたが、「暗唱」という概念を立ててはじめて、19世紀以後の主にドイツの音楽関係者が口にする「読む音楽」(楽譜を読むほうが、音を聴くよりよくわかる音楽)の位置がはっきりする。

シューマンは、おそらくバッハあたりを「楽譜で」知ったせいで、「読む音楽」という実は新しく、決して伝統的ではない発想に傾斜したのではなかろうか。

「読む音楽」という発想は、19世紀の出版バブルによって創られた可能性がある、ということだ。

(4) ヘーゲルと黙読

そしてそうなると、ふと気になったのだが、ヘーゲルが文学を語るとき、彼は「暗唱」や「黙読」についてどう考えていたのだろうか?

(世界が動いていようがいまいが、大学の授業は毎週1回のペースで淡々と「コマ」を進める。)