批評と広告

[3/31 16:45 最後を一部加筆。]

増田聡さんが、近著「音楽未来形」への私の感想をリンクしてくださっていました。

http://masuda.way-nifty.com/blog/

恐縮です。

で、ブログの内容が興味深かったので、勝手に(しかも数ヶ月前のエントリーに)便乗して、批評と広告、のような話。

私自身は、「音楽評論家」という肩書きで文章を書かせていただくようになって以来、批評と広告は、まだらに混交しているのが常態だというつもりでいました。

かつて、北田暁大さんが、「広告都市・東京」で、広告は、今も昔も、猥雑な「第三空間」に生息していると書いていましたが、

批評も、おそらく、広告に隣接して「第三空間」に巣くっているように思います。

東京ディズニーランドや「渋谷」が、広告の本質を変えたわけではないように、「ニューアカ/ポストモダン」は、批評の猥雑さを脱臭・脱色できたわけではない、そんな簡単な話ではない、という気がしています。

私が生息しているのは、そうした「批評」の世界の中でも、さらに片隅の、薄暗いところだと思います。

猥雑で面妖な空間です。

例えば、先日、増田さん、谷口さんの「音楽未来形」の、岩城宏之「楽譜の風景」に関する話について書きました。

「音楽未来形」への論評(=批評、増田さんが言う「近代的」な意味での)として読めば、重箱の隅をつつく、細かい話です。

増田さんが、別のエントリーで書いている「鋭敏な人の寓話」があてはまってしまいそうな、うっとうしい「お小言」(笑)。

でも、あの文章の本来の意図は、岩城宏之論。「音楽未来形」は、岩城について書くためのダシです。申し訳ないですが……。

で、岩城氏の面白さをここに書いておくことは、彼が首席客演指揮者をつとめている京響の「宣伝」にもなるだろう、と思いました。

我ながら、セコい話ですが……。

そして、もうひとつ、別の例。

現在、「朝日新聞」全国版では、岡田暁生さんが、「音楽学者」の肩書きで、ときどき、コンサート評を書いておられます。

ティーレマン指揮ウィーン・フィル、マズア指揮フランス国立管、ヤンソンス指揮サンクト・ペテルブルク・フィルなど、取り上げる対象や、批評の論調は、「ブルジョワの娯楽/芸術としてのクラシック」の全肯定。ご自身のご研究や日頃の言動と、ぴったり一致しています。

一方で、京都の音楽関係者の間では、岡田さんが京都コンサートホールから歩いて数分のところにお住まいで、ご自身やご親族が、京都市の公的・私的な音楽活動に、直接・間接に関わっておられることは、よく知られた事実です。

朝日の批評をそのような「色眼鏡」で見直してみると、

フランス国立管(指揮者を絶賛)は、京都市文化芸術財団の主催公演であり、

サンクト・ペテルブルク(対象は岩国(!)公演)の評(大絶賛)の新聞掲載は、同楽団京都公演の数日前というタイミングでした。

この段階で、京都公演のチケットは、おそらく、ほとんど売れてしまっているでしょうから、直接の「広告」効果というより、市の文化行政への側面支援でしょうけれど、

いずれにせよ、もし、意図的にそうした効果を計算しているとしたら、かなりの「ワル」(笑)。

意図せざる「無意識」の行為だとしたら、絶大な効果の偶然を選び取る奇跡の人、天賦の才能、ということになりそうです。

岡田氏の「ブルジョワ肯定」は、こうした、ある種の図々しさと不可分であるように思います。

少なくとも、朝日新聞をご購読の方々は、日々、配信される印刷物に相当な「劇薬」(対京都限定だけれど)が刷り込まれているのだということを、きちんと自覚しておいたほうがよいかもしれませんね(笑)。

(そして、さらに言えば、岡田氏とその一族は、今、着々と、自分たちの聞きたいものを聞き、楽しみたいものを楽しめる環境を構築しつつあるわけですが、今風に言えば、はたしてそれは、何を「担保して」いるのか? そこに、知ってから知らずか加担している各本面は、きちんと差し押さえるべき「担保」を確保しつつ、それを許しておられるのか? それとも、「無担保」で踏み倒されてしまうのか? 手に汗握りつつ、推移をながめる今日この頃です。)

「批評/広告」の猥雑さは、昨日今日にはじまったことではなく、相当、巧妙に発育していると、私は思っています。