三橋桜子チェンバロリサイタル

午後、京都府立府民ホール・アルティ。バッハ「イタリア協奏曲」、ラモー「コンセールによるクラヴサン曲集」より、ハイドン「カプリッチョ<8人のへぼ仕立屋に違いない>」、モーツァルト「組曲」K. 399、パブロ・エスカンデ「パルティータ」。

耳を澄ますと多彩な響きが聞こえてくる演奏だったのですが、曲間に話を入れたのは逆効果だったかも、と思いました。

チェンバロはピアノに比べて表現力の乏しい楽器というイメージが今も根強くあります。弦を「はじく」機構のせいで、指先でタッチをコントロールすることができず、だからこそ、ストップの切り替えや、リズムのくずしなど、別のやり方で演奏を活気づけなければならないのだ、というイメージです。

でも……、
実際には同じ楽器でも、演奏家によってタッチが変わる。おそらく、ピアノと同じで無駄な力が入ると、音がつまったり、弦が響ききらなかったりして、本来の音が出ないということなのではないかと思います。

最近、話題になっているらしいシャンドールのピアノ教本で言われているのと似たようことが、チェンバロにも、(実は)あてはまるのではないでしょうか。

シャンドール ピアノ教本―身体・音・表現

シャンドール ピアノ教本―身体・音・表現

  • 作者: ジョルジシャンドール,岡田暁生,大久保賢,小石かつら,佐野仁美,大地宏子,筒井はる香
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2005/02/01
  • メディア: 単行本
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それから、チェンバロには音色の多彩さがあると思います。

チェンバロ奏者が、ピアノでは失われてしまった様々なレトリック(ルバートや微妙なアゴーギグによるアクセントづけや和音のくずし)を使っていることはよく知られていますが、

これは、発音のタイミング(ずれや速度変化によってリズムに「癖」をつけれること)だけを目指しているわけではなくて、響いている弦の残響の配合を変化させることでもあると思います。良い状態で弦が響いていれば、残響を混ぜ合わせながら弾くことでメロディに独特の表情が生まれたり、曲の「色」が生まれるのだと思います。

今回は、そういう意味での多彩さを感じさせる演奏だったのに、合間のトークは、常識的なチェンバロのイメージをなぞるような内容で、せっかくの「聞き所」にお客さんを誘導し損なっていた印象。

バッハは、発音のタイミング(リズム)だけ聴いていると一定の速度でカタカタ動くだけの演奏に聞こえた可能性があり、そういう「常識」で聴いている人は、第2楽章(楽器の調律がズレ気味だったのが残念でしたが)のチェンバロらしいカンタービレや、第3楽章できれいにバスの主題が浮かび上がったりするユニークなストップの組み合わせを聞き逃したかも。

ラモーも繊細に「色づけ」された演奏だったのですが、それを聞くためには、「常識」とは違う「耳の調整」が必要だったかもしれません……。

(ハイドンのアルベルティ・バスは、さすがに、チェンバロ向きではない選曲だったように思いましたが、古典派でバロックやギャラントとは別の、パリっと粒だった音をチェンバロで作るのは、面白い試み。)

世間の常識に遠慮することなく、演奏する上で工夫していることを話してしまうか、そうでなければ、(今回のようなチェンバロとしては大きな場所で不特定多数の人が来る場では)演奏だけで勝負するほうがよかった気がします。

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奔放に鍵盤上を飛び回る「お調子者」系のスタイルが優れたチェンバロ演奏と思われている現状がいまだにあります。だからこそ、三橋さんのような確かな「耳」をもった人が、もっと「厚かましく」活躍していただきたいものです。