歌劇「夫婦善哉」ノート

[8/30 最後に「夫婦善哉」のポマードの話を追記しています。]

昨日の講演では、終わったあとに図書館の方、聴きに来てくださったオダサク倶楽部(大阪にはそういう名前で織田作之助に関する啓蒙活動をやっていらっしゃる方々がいるのです)の皆さんと歓談させていただいて、それを含めて、とても勉強になりました。

今回、大きなスクリーンを使うことができる会場でしたので、前半は、ここでもご紹介した大栗裕の足跡を示す写真資料(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100807/p1)や、武智鉄二が演出した様々な舞台の写真など、視覚資料を中心に話を進めて、後半は、色々なタイプの大阪言葉とそれを活かした作品の録音など、聴覚資料の聞き比べ(このお話は今回が初披露)。そして最後に、実際のオペラの舞台映像で、目と耳の両方をフル活用していただく、という段取りにしてみました。

(レジュメはリンク先の最後に乗せています。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100828 やや内容を詰め込みすぎて、一部、使えなかった映像があったのは申し訳なかったのですが……。これはまたいつか、機会があれば。)

それから、原作の小説、脚本、演出、音楽(作曲と演奏)がぜんぶ合わさってはじめてオペラですから、話を音楽だけに限定できないのは当然ですが(そしてそういう題材だからこそ、本を愛する方々の場所、図書館でのお話に丁度良いだろうと思ったのですが)、色々な音楽をご紹介するときに、それがいわゆる「シリアス音楽」(かつて「現代音楽」と呼ばれることの多かった戦後の前衛的・実験的な音楽ジャンルを、最近ではこのように呼ぶ例をしばしば見かけるようになりました)であるかどうか、ほぼ一切考慮しませんでした。

大阪の唄、大阪の言葉がどのような抑揚をもつか、という視点で、貴志康一の歌曲と、戦後の流行歌やいくつかの映画の台詞まわしと、船場生まれのご夫人のインタビューと、大栗裕の歌劇を、全部横並びで聞き比べる、というようなことをやりました。

そういうことをやりながら気づいたこと、終わったあとの歓談でようやくみえてきたこと、時間的なこともあってお話しきれなかったことなどを、いくつかメモしておきたいと思います。

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●「これはオペラなのか?」

素朴な疑問とも言えますが、昭和30年頃の日本の創作オペラ運動に関連する文章を読んでいると、作曲家の側のワーグナーの楽劇やドビュッシーの「ペレアス」を引き合いに出しつつ今さら長々とアリアを歌う伝統的なイタリア・オペラを書くことはできないという意識と、そういう小難しい理念にもとづく新作を上演してもお客さんに受けないという現実の乖離があって、そこから悲喜こもごもの錯綜した議論が発生していることがわかります。

團伊玖磨が相当に考え抜いて落としどころを決めたと思われる「夕鶴」が、プッチーニみたいだ、とやや批判的に言われてしまうかと思えば、清水脩の、作曲技法的・様式的には(少数の原則・スタイルを押し通しているという意味で)一様過ぎるかもしれない「修禅寺物語」は、「ペレアス」をモデルにしていることがあまりにも明らかだ、という理由で、逆に、技術・様式の選択を問題視されることがない。頑固おやじのやることに、あの人はああいう人だから、言ってもしょうがない、と思われているような雰囲気が感じられます。

一方そうかと思えば、大栗裕が、「赤い陣羽織」や「夫婦善哉」で、歌手の譜面に一切「歌」を書かずに、語るようなスタイルで通したことについては、芝居としては面白いけれど、音楽が貧しい、との論調がありました。大栗裕の様式選択は、清水脩の場合とちがって、特に東京の人たちにはその出所がよくわからず、そうした戸惑いが、やや安直に、音楽学校を出ていない大阪人、大栗裕への、あからさまには言わないけれども暗黙にあったかもしれない「見くびり」と野合したのかもしれません。(実際には、武智鉄二や大栗裕など、関西歌劇団の人たちの間でも、今更アリアを書くのは違うだろう、ということが、彼らなりに、自明の時代認識としてあったようです。その意味で、オペラを知らないシロウトの仕事ではなかったはずなのですが。)

「アリア」を書かずに、なおかつ、音楽劇としてのカタルシスを生み出すにはどうすればいいか。おそらくこれは、実際には作曲の技法・様式だけの問題ではなく、観客がどう受け取るかということとの相関関係で成否が決まるものだと思われます。「こんなのはオペラじゃない」とそっぽを向かれることになるか、奇妙なものだけれども面白い、ということになるか。そこにはお客さんとの一種の駆け引きがあるはずです。ところが、当時のジャーナリスティックもしくは批評的な言説は、舞台上演の結果を「作品(作曲)」の品質鑑定へ落とし込もうとする傾向があったようですね。

そのあたりの錯綜した議論をときほぐして整理しなければいけないと思うのですが、私にはまだそこまで手が回らないので、今回は、こうした「戦後日本のオペラ論」には言及しませんでした。宿題です。

●旧劇風の演出

歌劇「夫婦善哉」では、主な歌手たちの台詞は大阪言葉の語りになっていて、そのかわりに、要所要所に大阪のわらべうたや民謡、物売りの声や当時の流行唄が挿入されます。関係者の証言から、どこでどういう歌が入るかということは、大栗裕に渡された中沢昭二の台本の段階ですべて指定されていたようです。だからこのアイデアの出所は中沢昭二、もしくは、台本を事前に武智鉄二も見ていたとしたら、中沢&武智だと思われます。

私はひとまず、これは、放送作家の中沢昭二が台詞のバックに適宜音楽を流す放送劇のノウハウを応用したのではないかと考えて、そんな風にお話したのですが、講演後の歓談で、泣かせる場面で「天満の子守唄」が流れたりする演出は説経節や浄瑠璃を思わせる、とのご指摘をいただきました。そういえば、「夫婦善哉」の初演時に、新派だ、との批評も出ています。

中沢昭二は、若手ですが日本の芸能に通じていたらしく、武智鉄二が彼を抜擢したのは、放送での仕事を通じてそのことを知っていたからだとも考えられます。

台詞と音曲を絡み合わせる伝統的なノウハウが、ラジオなどの放送劇に活かされた可能性もありますから、こうした泣かせる演出(あるいは逆に、一銭てんぷら屋で子供達が「おっさん、はよしてえな」とせがむコミカルな合唱のとぼけた味わいなど)については、日本の演劇の広い文脈を視野に入れて考えたほうがいいのかもしれません。

●大阪言葉の問題

そもそも大阪の言葉とはどのようなものなのか?

船場商人の言葉の出所であるとか、講演でもご紹介させていただいた浪花千栄子さんの台詞回しが、大阪のネイティヴな皆さんの間で絶大な信頼を得ていることとか、泉州・河内と大阪市内との関係とか、谷崎潤一郎が「細雪」で描いたような、本来は船場出身ではあるけれども芦屋に暮らしているブルジョワな方々の、関西訛りと標準語、よそ行きの言葉と内輪言葉の使い分けをめぐる微妙な意識とか。話し言葉は絶えず変動しつづけるものではありますけれども、織田作之助も武智鉄二も、おそらく大栗裕も、ラジオや大衆芸能(漫才・新喜劇ですね)を通じて、ステレオタイプな大阪弁が強力に広まりつつあるなかで、大阪の言葉とは何なのか、敏感に意識せざるを得なかった世代だったのだと思います。

今回、講演でお話させていただいたことは、問題のほんの入口のようなところだと思いますが、大阪市のど真ん中でこういうお話をするのは無言のプレッシャーがありつつ、案の定、講演後に色々なことを教えていただきました。

「大阪言葉による史上初のグランド・オペラ!!!」というのが、歌劇「夫婦善哉」の最大の売りだったわけですし、ここがこの歌劇を考える上での本丸、ということにならざるを得ませんし、これからも見聞を深めてゆきたいと思っております。

標準語の成立事情―日本人の共通ことばはいかにして生まれたか (PHP文庫)

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伝統芸術とは何なのか―批評と創造のための対話

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●旦那芸の義太夫節

歌劇「夫婦善哉」には、浄瑠璃・義太夫節が2つ出てきます。ひとつは、蝶子と柳吉が居候している部屋で唸る「三勝半七艶姿女舞衣」の酒屋。もうひとつは、法善寺のラスト・シーンで雪の中の道行を気取りつつ二人で唸る「冥途の飛脚」の新口村。どちらも、当時の商家の旦那衆の間ではポピュラーだったに違いない定番です。

織田作之助と三勝半七は、彼の生まれた上汐町のお話である等々の因縁があって、「夫婦善哉」といえば三勝半七、と言ってもいいくらいのものであるようです。一方、新口村は、雪の道行、ということで台本作成段階で付け加えられたのではないかと思われます。

大栗裕のお父さんも美声で義太夫をやっていたそうですし、大栗裕は後年、なるべくしてそこへたどり着いたと言うべきか、近松の「お夏笠物狂い」や「曽根崎心中」の詞章に作曲した歌曲も残しています。あまりにも直球ストレートなことではありますが、「夫婦善哉」と浄瑠璃・義太夫という取り合わせも、やはり、避けては通れないトピックですね。

……歌劇「夫婦善哉」をトータルに見ていこうとすると、本当に課題山積なのです。^^;;

●武智鉄二のお色気

最後にもうひとつ。これは、講演の準備段階で完全に忘れてしまって抜けてしまったトピックなのですが、歌劇「夫婦善哉」には、主役の二人が「なあ、ええやろ」と言って部屋の明かりを消して……というベッド・シーンがあります。暗闇のなかから、二人の「三勝半七」が聞こえてくるも、いつしか声がとぎれとぎれになって……暗転。というような想像をかき立てる展開になっています。

武智鉄二は、「お蝶夫人」の最後の切腹シーンで、蝶々さんを衝立の裏に隠して、庭の桜の花びらが一枚、ハラリと落ちることで彼女の死を暗示したそうです。このベッド・シーンも、ナマで見せないことで一層強い印象を残す流儀になっています。武智鉄二は、「白狐の湯」でヌード・ダンサーの入浴シーンを出したり、後年はハード・コアな映画を撮りますが、なんでもかんでも露骨に見せたわけではなかったようです。(それでも、歌劇「夫婦善哉」が当時の在阪民放テレビOTVで中継されたときには、このシーンはカットされたそうですが。)

歌劇「夫婦善哉」が初演された昭和32年(1957年)は、武智鉄二が公私あちこちでスキャンダルを巻き起こしつつ多彩な仕事をやっていて、大阪では錚々たるメンバーが名前を連ねた「武智鉄二後援会」(朝比奈隆も入っていました)ができるという騒然とした時期でした。歌劇「夫婦善哉」は、織田作之助との関係、大阪ミナミの文化との関わりだけでなく、武智鉄二の仕事としても、らしさが過不足無く詰まった公演だったと言えるかもしれません。

●維康商店のポマード

大阪には織田作之助、「夫婦善哉」を裏の裏まで読み込んでいらっしゃる方々がいらっしゃって、今回、そうした方々も講演に来てくださるとお聞きしていたので、少しは原作小説の読みに関する話題も入れなければいけない、と思って出したのが、主人公、柳吉の家業のことでした。

柳吉の実家、維康商店は梅田新道の化粧品問屋という設定になっています。船場が代々続く老舗の並ぶ界隈だったのに対して、梅田新道は新興の店が並んでいたそうです。(武智鉄二の実家、京大を出たお父さんが立ち上げた建設関係の会社も梅田新道にあったようです。)

都市大阪 文学の風景

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そう思って考え直してみますと、維康商店が扱っている(と小説内で書かれている)ポマードは、当時のモダンな男たちに必須の整髪料です。大阪キタのブルジョワ文化のスターになった貴志康一も大澤壽人も、若き日の朝比奈隆も、そういえばみんな、ポマードのオールバックをビシッと決めて写真に収まっています。(タカラヅカの男役の定番の髪型もこれですね。)

男はなぜ化粧をしたがるのか (集英社新書 524B)

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小説「夫婦善哉」は、生活能力のない柳吉のような男に、どうして蝶子さんのように気丈な女性が惚れるのか、そこがよくわからないところであって、ダメな男に尽くす女の母性、とか、そういう読み方をしてしまいたくなってしまいますが、そうではなくて、柳吉は、モダンな風俗を支えるキタの化粧品問屋の総領で、それなのに気取りがなく、B級グルメが大好きな男。下町育ちの蝶子が憧れておかしくない人だったのかもしれません。

「夫婦善哉」が都市のディテールをカタログ的にちりばめるところは、東京で言えば田中康夫の「なんとなくクリスタル」を先取りしているとも言えると思うのですが、バブル東京に置き換えると、柳吉と蝶子の駆け落ちは、アパレル業界の御曹司に銀座のホステスさんが惚れたのに近いかもしれないのです。

夫婦善哉 (新潮文庫)

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なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

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(その意味で、柳吉の設定がわかりにくくなってしまったのは、映画「夫婦善哉」のせいでもあるかもしれません。豊田四郎の映画では、柳吉の実家が、まるで船場の古い家であるかのように描かれています。船場と梅田新道の違いは、東京東映の撮影所ではよくわからなかったのか、大阪のイメージをわかりやすくするために、そういう細部を捨てたのか、どちらかなのかもしれませんね。原作は大正末から昭和初年の話なのに、映画の冒頭では、昭和6年再建の天守閣が遠景に描かれていますし……。)

今回の講演では、大阪のキタとミナミの対比をひとつの軸にしましたので、その点でも、柳吉=キタのモダン・ボーイと、蝶子=ミナミの路地の苦労人、という設定を再確認するのは、悪くないアイデアだったのではないかと我ながら思っております。これは、オダサク自身の上昇志向とも関わることですし、同じ上昇志向を若き日の大栗裕も胸に抱いて東京へ出て行ったはずですから。

(ただしそうすると、大栗裕のオールバックはどうなのか? 私自身もそうなのでよくわかりますが、頭の鉢が大きくて、髪が多くて剛毛気味だと、オールバックは結構大変です。モダン・ボーイのマネをしてやろうとすると、松本清張みたいな髪型になってしまいます(笑)。オシャレというより、ものぐさだから前髪をざっくりなでつけているに過ぎない感じで、むしろオッサンの記号ですね。大栗裕のヘアスタイルは、そういうオッサン系オールバックです。黒縁メガネにオールバックの大栗裕は、外見の点でも、モダン・ボーイに憧れつつ戦争をはさんで別の道を進むことになった世代の典型のような気がします。)

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今回の後援会は、私がこの歌劇について調べ得たことをひとまず一通り出してしまう「まとめ」の意気込みで臨んで、言えることは言わせていただいた気がしておりますが、まだまだ、その先/その奥には色々と面白そうなことがありそうです。