失われた「複数の声」を求めて

[9/9 「拍手」をめぐる私見を付記。]

グスタフ・マーラー――現代音楽への道 (岩波現代文庫)

グスタフ・マーラー――現代音楽への道 (岩波現代文庫)

90年代以後の日本は反動・バックラッシュの時代になったと言われることがある。音楽をめぐる議論にも、たしかにその傾向があるかもしれない。

わかってやっているならそれでいい。

でも、周りから見ていると、自分がどこへ向かって撃っているのか、その弾が誰を撃ち抜くのか、本当にわかっているのか、心配になることがある。

あなたのその一言は誰を殺すのか?

まあ、人は死ぬときには死にますけどね。あなたも私も。でも、生きているときは、あなたも私も、みんな生きているのですから、理由のよく分からない抑圧はないに越したことはない。

1.

伊東信宏は、マーラーが、同じボヘミア出身のユダヤ人作家カフカがそうであったように、「複数の声」を聴いてしまう人だったのではないか、と、かつてどこかに(たぶんコンサートのプログラムの解説に)書いていた。

片山杜秀は、柴田南雄が最も好んだ音楽は実はマーラーだったのではないか、と指摘した。柴田の経歴を初期から順に見ると、彼がマーラーを意識したのは70年代以後に過ぎない。片山の発言は、柴田南雄という存在を全体として捉えるというよりも、現在の視点から見たときに肯定しうるポイントに強烈な光を当てて、柴田南雄を「現代音楽」の登記簿から救い出すパフォーマティヴな「批評」だった。

柴田南雄のマーラー論を賞賛する人は、しばしば、交響曲第3番の冒頭主題の分析に注目する。この主題が「複数の声」、「複数の文化」を背負っていると見る分析である。

1960年代生まれの論者たちがマーラーの「複数の声」に注目するのは、世代の刻印、次第に有効性が失われつつある一過性の流行だったのだろうか。それとも、わたしたちの耳は、これからも「複数の声」へ開かれていたほうがよいのだろうか。


2.

学会の発表レポート集をながめていると、個人発表のあとの質疑応答について、誰が何を質問したか、発表者がどのように答えたか、実名で記録している例はごくわずかだった。

昔は、質疑応答の内容を具体的に報告するのが通例だったと思うのだが……。

学会発表は個人リサイタルのようなものであり、質疑応答はコンサートのあとに観客から喝采を受けるアンコールであるか、もしくは、関係者が入れ替わり立ち替わり、社交的な「コングラチュレーション」を花束とともに贈る楽屋見舞いなのだろうか? だとしたら、学会発表のレポートがねぎらいと激励で締めくくられるのも、わからないことではない。

だが、学会が複数の個人が集うアソシエーションなのだとしたら、発表の形で提起された問題をめぐる質疑こそが本番であると考えることも、不可能ではないはずだ。

わたしたちは、「複数の声」が立ち騒ぐ状態を正視して、その成り行きを文章として記録する意欲と技術を減退させつつあるのだろうか?

3.

「私は、良いと思ったものについてしか書きたくない。どうでもいいものについて書いたり、悪いものをあげつらっても仕方がない」と宣言する人がいる。

このような語法は、当人が望むと望まざるとにかかわらず、昭和前期の身辺雑記風心境小説(志賀直哉)と、「美しい花があるだけだ」の小林秀雄の末裔に見えてしまうわけだが、それでいいのか。

わたしは、あなたを取り巻く世界がどれくらいの「良いもの」を含み、あなたが、どの程度「どうでもいいもの」に取り巻かれ、いつどのようにして「悪いもの」に出くわしてしまうのか、ということをこそ知りたいと思う。

「良いもの」と「悪いもの」を鮮やかに対比すれば、ドラマが生まれる。(そのような態度は、オペラがそうであるように、あまりにも「古典的」で、同時代的な刺激を欠いた「伝統芸能」かもしれないけれど。)

「良いもの」と「悪いもの」と「その他(どうでもいいもの)」を分類して数え上げるところから、柴田南雄風の「科学的方法」、すなわち統計がはじまる。(もしかすると、そのような「科学的方法」は、メタでダンディな傍観者の名において、「どうでもいい凡庸な作業」へと算入されてしまうかもしれないけれど。そして「近代」は終わりなき倦怠を発見しただけだったという考え方もあり得るかもしれないけれど。)

「良いもの」だけを語ることによる刺激を欠いた退屈と、「良いもの」と「悪いもの」と、その他大勢の「どうでもいいもの」とが入り混じる世界への倦怠と、どちらを取るか。

究極の選択?(笑)

4.

でも、事態は実はそんなに格好良く「ワールドワイド」な都市文化論の文脈に収まるものではないのかもしれない。

「悪いもの」を視界から排除して、「悪いもの」の前で口をつぐむのは、「物忌み」なのかもしれない。人は、穢れを嫌い、身の回りを清めたいのかもしれない。

音楽を日本語で語ることは、Musicを「清め」と「穢れ」の磁場へ引き入れる大和民族のローカリゼーションなのかもしれない。

いや、本当はそんな大層なことではまったくなくて、デジタル録音によって「無音」を日常的に知ってしまった音楽ファンが、無音からサウンドが立ち上がる状態こそが音楽であると見なし、「音楽」の周囲から、可能な限り「音楽ならざるもの」を排除したいと夢見ているだけなのかもしれないのだが。

(たとえば、CD鑑賞がデフォルトであるクラシック・ファンが、コンサートで「音楽」が終わったあとに、「感動に震える沈黙」(ときにはそれが数秒から十数秒続く)を欲望して、「フライング拍手」(とは何か?)を罪悪と見なすように。)

      • -

「複数の声」はノイズの別名なのだろうか?

(「○○は××だ」という断言を目にする(あるいは耳にする)と、わたしはすぐに、たしか「○○は△△だ」と主張する人がいたはず、そういえば「◎◎こそが××であり、△△といえば☆☆だろう」と書いてあるのを読んだこともある、等々の記憶が蘇り、脳内がポリフォニーだかヘテロフォニーだかわからない状態になるのですが。そしてそれは、「音楽の愉しみ」とどこかで通じ合っていると思ってしまうのですが、そのように、○○と△△と××と◎◎に☆☆までもが加わる複数性の「音楽」を鳴らすのは、もはや時代遅れなのでしょうか。あるいはそうなのかもしれませんねえ。)

Berio: Sinfonia / Eindrucke

Berio: Sinfonia / Eindrucke

4b.

あるいはもうひとつの可能性として、床の間の生花や掛け軸を愛でるように音楽を眺める態度が、ひょっとするとあるかもしれないとは思うけれど。

障子を開け放ち、手入れの行きとどいた庭の光を採り入れながら、四季折々の音で心を潤すこと。いわば、花鳥風月としての音楽。

地方の旧家には、もしかすると今もそうした文化が息づいているかもしれず、選び抜かれた「良き音楽」は、そのような場所で幸福にローカライズされ、ヨーロッパから遠く離れた極東の木と紙でできた家屋に、今も、そしてこれからも、一輪の花を咲かせるのだろうか。

それはもはや東アジアの文人文化であり、妄執を脱し、他我の境も、単数と複数の区別もない桃源郷なのだろうか。

永遠に、永遠に……。

マーラー:交響曲「大地の歌」

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[付記]

新しいエントリーを立てるほどではないと思ったので、コンサートの拍手についての私見。

大前提として、クラシックのコンサートに通い慣れていらっしゃる大多数のお客様はごく自然に振る舞っていらっしゃって、通常、コンサートの会場が特に異様な雰囲気になることはそれほどないように思っていますが、それでも、慣れない方にとっては「マナー」に外れたことをしてしまわないかと気を遣われることがあるようで……。

私はコンサートのいわゆる「マナー」は基本的に副次的なことだと思っているのですが、なかでも「拍手」のタイミングを問題にする人が多い(というほど多数ではないかもしれないけれども、時々それが話題になる)のは、曲と曲(あるいは楽章と楽章)の「間」もパフォーマンスが持続している、という観念が極端に強すぎるからじゃないかという気がします。

最近では、お芝居でも「スムーズな転換」というのが称讃の対象になったりして、幕と幕の「間」にダラっとした時間が流れることが嫌われるようです。ダラっとした時間は、ダラっとしていればいいのに……。

あと、舞台の上の人が頑張るんであって、こっちは見物人ですから、演奏の間も、邪魔にならない程度にリラックスして、普通にしていればいいと思うのですけれど。

要するに、幕間や曲間は、パフォーマンスの「隙間」だと思うのです。

繰り返しますが、実際のコンサートで大多数の方は、そのあたりの呼吸をわかったうえで普通に過ごしていらっしゃると思うので、わざわざ言挙げすることではないと基本的には思っているのですが、「隙間」の過ごし方が気になって仕方がないという方のために言うと、

以下、インチキな俗流日本文化論になってしまいますが、

たとえば茶会のように、一連の段取りすべてがコード化されている文化が既にあって、その尺度をオペラやコンサートのように幕間や曲間でぽっかりと「隙間」が空いてしまう芸能にあてはめようとするからこうなったのかなあ、というのがひとつ。

  • (a) 茶会でも遊郭でも、格式の高いところはきっちりお作法が決まっているから、西洋の音楽会だってそうに違いない、という、善意にもとづく「足し算」の発想

それから、LPやCDの「Total Time: 49 min」みたいなのからの連想というのが、もうひとつなのかなあ、と思うのですが、どうなのでしょう。

つまり、

  • (b) コンサートは、自宅のレコード鑑賞とは色々違うことがあるらしい。ここが違う、あそこが違う、どうなってるんだ、わかんないよ、教えて頂戴! という風に、コンサートと音盤鑑賞の「差分」に対して極端に敏感になる「引き算」の発想

コンサートはコンサートだ、ということではなく、より自分に近しい文化や芸能・風習からの「足し算」と「引き算」をもとに隙間や差分を細やかにケアすることで、「日本の洋楽」はユニークなマナーを育てつつあるのかなあ、と強いて言えばそう思います。

そして、「日本の洋楽」は、もう150年以上続いた既存の文化だと思うので、このまま熟成させるということでいいのかもしれませんね。ビバ、ニッポン!ということで。

でも、おそらくヨーロッパの音楽家が聴衆とのインタープレイに言及するときには、音楽と音楽の間の「隙間」をどう埋めるか(そこで観客サービスをしよう等々)ということ以上に、(もちろん、そういうことを含めて色々工夫する人は今も昔もいるでしょうけれども)主としてパフォーマンスの渦中での聴衆との関係が意識にあったんじゃなかろうか、という気がします。そこを読み違えると、話が妙に屈折してしまうかもしれないので要注意ですね。

「隙間」を上手に埋める日本の「おもてなし」が特産品として認知されているという説もあるようですし、あっちが本物で、こっちは邪道だ、ということではなく、それぞれでやっていけばいいのだと思います。

(あと、コンサートの場合は曲間にぽっかり「隙間」が空いていますが、劇場の場合は、社交生活という、より大きなコンテクストに芝居が組み込まれているのだと思います。晴れやかな社交生活があって、幕が開いてから降りるまでの間だけ「お芝居」の虚構の時間が流れて、幕が降りたら、ふたたび社交の時間になる。

どちらにせよ、ヨーロッパの「音楽」は、曲間や幕間を含めたトータルな時間を音楽家の責任においてコーディネートする、というのとは違うところに棲息しがちなものとして長らくやっていたのではなかろうか、という気がします。別にヨーロッパ流の劇場とコンサートが世界の音楽文化の先端にして中心なわけではまったくないですし、あちこちで色々な文化と混ざり合う傾向が加速しつつあるのだろうとは思いますが。)

      • -

そして最後に「例の件」についてひとこと。

演奏が終わった瞬間を待ちかまえ、狙い澄まして甲高い声を上げる人は、たしかになんだか場違いに思えますが、私は、これを「必要であるべき静寂を台無しにした」というように、曲間が無音で区切られた音盤を暗黙のモデルとする語法で批判することにも違和感を覚えます。

あれはむしろ、パフォーマンスの「隙間」であると思われていたところへ突っ込むことで、「図」と「地」の関係を一瞬にして反転させてしまうこと(舞台上ではなく「ブラボー」という声の主が場の主役になってしまうこと)への驚きと違和感なのではないでしょうか。

「ブラボーおじさん」は、コンサートを異化して脱臼させるハプニング・アーチストである、ということでどうでしょう。

そのようにとらえると、場合によっては当該のおじさまに係の方が「自粛」をお願いすることも、お客様の行動に制約を加える口うるさい主催者、という後ろめたさなしにできると思いますから。

美学っちゅう奴も、こういう風な説明に使えば、世間様のお役に立つかもしれませんね。(^^)

[付記その2:読まれることを期待せずにこっそりつぶやいてみる]

「関西のオーケストラはベートーヴェンとチャイコフスキーばっかりだ」というのは、事実に反するいいかげんな風説だと思います。

ここ数年、関西のオーケストラは、定期演奏会のラインナップを見ればどこも選曲や企画に知恵を絞っているのが一目瞭然です。

自分のお気に入りに惑溺して、とにかくお気に入りを誉めたいという一念で、他を(事実に反して)悪く言うのはレトリックが幼稚だと思う。「愛は盲目」ということで見過ごすべきかもしれないが、ちょっと酷い。あんまりな言い草だと思うぞ。