テクノロジーと関係妄想(片山杜秀『未完のファシズム』)

[以下に言及する本の著者が近代政治思想史業界(というのがあるんすかね)のフルメンバーとして認知されているかどうか、というニッチな問題を私は感知せず、そのようにお江戸(人はそれを「中央」と呼ぶ)の行政に無知であるわたくしは、ちょうど、庶民伝説において旗本高家・吉良上野介に「田舎侍」とバカにされたことになっている赤穂の殿様と同じようなものだと思いますが、なるほど東大と慶應の間で21世紀になってもそういうつばぜり合いがあるのだとしたらちょっと面白いかも知れず(「徹底討論・渡辺裕vs片山杜秀」は、数年前にあった「岡田暁生×片山杜秀」より絶対に面白そうだし、アルテスっぽい!)、

http://twitter.com/H_YOSHIDA_1973/status/210432926641434624

でも、実は私が今一番興味があるのは、以下に言及する書物の著者・片山杜秀氏よりも、むしろ、こういう話題が2010年10月(3.11の半年近く前)から新潮社の『波』という月刊誌に、おそらく何らかの「面白さ」が期待されて連載され、2012年5月25日に単行本化されたのはどういう経緯と力学によるのだろう、ということでありまして、

(だってこれは明らかに音楽評論じゃないんだし、自分をべた褒めした吉田秀和が死ぬとは(たぶん)思っていないタイミングで、彼に誉められたあと最初に書いた本なのだから、売れっ子音楽評論家・片山杜秀というレッテルを通して読むのは、本の読み方として下品だと思うし、そういうレッテルを知りつつ知らんぷりして読む方が面白そうじゃないですか! 人間ってのは、そういう風に意地を張ることがあるものじゃないですか。そこをつぶすのは陰湿なイジメの心性だ、と私は思う(笑)。)

そういう意味では、私はこの本を著者の「作品」として読む気が最初からなくて、特定の個人に帰着できない「何か」によって編み上げられた不思議な文字列を見つけた気分なのです、という風に、東大の陣笠と京都のお公家さんが入り混じったような嫌味をひとまず脇に取りのけてから本題に入ります。だって、以下に言及する書物には、東北人が「田舎者」を装うノリが明らかに感じられるわけですから……。]

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

      • -

久々に「技術」について考えて、頭の中のいつもと違う方面が妙に活性化してしまったようなので、ややクールダウンしたい今日この頃。

行くところまで行くことで戻って来れそうな日本の総力戦論、理論と実践(実戦?)と技術を垂直へ貫いてヒトを総動員する第一次世界大戦後の陸軍軍人思想家列伝でございます。

[「精神の底知れぬ深さ」といった表現は]たとえばクラシック音楽批評ではバッハやベートーヴェンやブルックナーの音楽、あるいはフルトヴェングラーの演奏などに対して今日もよく使われる言葉です。「精神的に深い」という言葉は他者に判断停止を強い、対象の絶対化をはかる批評言語のように思われます。そのことが分からない人間は「精神的に浅い」として排除されてしまう。その意味で極めて暴力的でもある。そういう表現がクラシック音楽に用いられる分には罪が浅いかもしれませんが、玉砕となるとそうも言っていられません。この種のものの言い方が玉砕なる観念への国民的陶酔を煽っていたのです。(284頁)

などという文言がこっそり紛れ込んでいるので、他人事でなく身につまされたりしながら、同時に、なんでもかんでも「我がこと」であるかに思ってしまう過剰な臨場感こそが、「関係妄想」の入口ではないか、と思ったりもするのです。

      • -

「関係妄想」というのは、(語の来歴を調べたわけではないですが)おそらく、熱狂的なファンがストーカー化してしまう現象(アイドルの○○は私の恋人、運命の人だ、みたいな)を言うのが一番よくある用例かと思いますが、音楽の分析も、初心者を関係妄想の泥沼へ引き入れてしまうことがあります。

目覚ましい成果を誇示する分析手法を知ってしまうと、あらゆる作品のあらゆる細部に意味があり、知らない自分が怠惰であるように思えてきて、楽譜の隅から隅まで、和声and/or対位法and/or形式and/or楽器法and/or動機的・音程構造的・音高集合的・音列的・Urlinie的な文脈……等々をくまなく調べ上げなければ気が済まない衝動に駆られてしまう、という症状です。

ある程度、勘が良く耳がいい人(あるいは逆に、今自分が聞こえている印象に安住している普通の人)は、「それはいくらなんでも机上の空論だろう」と歯止めがかかるのだけれど、程ほどに真面目で律儀な人は、かえって、いくところまで行ってしまいそうになるようです。(わたくしも、その傾向があるかもしれないので注意しなければ、といつも思います。)

北米の大学でどうしてシェンカー理論やピッチクラス・セット理論が一定の地位を得てしまうのか、というのも、(あんなのマニアック過ぎて、そこまでやる必要があるわけないのに、と対岸から眺めると思いますし、)いかにも、メタでクールな気の効いた説明ができそうな社会・文化現象ですよね。

無調音楽の構造: ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察

無調音楽の構造: ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察

調性音楽におけるシェンカーと、無調音楽におけるピッチクラス・セット論は、合わせ鏡のようによく似た性質を備えたメソッドだと思います。こういうものにすがる心理を卒業する人と卒業しない人の分岐点はどこなのだろう?

      • -

音楽分析がその種の狂信へ爆走してしまう一つの理由は、「理論」と「設計」の取り違えなのだと思います。

(ダールハウスは、和声・対位法であれ音楽分析であれ、音楽の技術論を語るときにはほとんどいつも、音楽の実際は複数の理論のツギハギとならざるを得ないのだ、「大統一理論」が存立しうると信じる根拠はないのだ、というところへ議論をもっていくモラリストでした。)

でもそれだけでなく、日本という「持たざる国」がいかにして戦うか、を常に考えているし、考えねばならない立場であったとも言える軍人さんの思想を読んでいると、「臨場感」(いついかなるときでも、直ちにそこが「現場」となりうるのだ、という構え)が関係妄想の強力な温床になるのかもしれないなあ、と改めて思いました。

「持たざる国」日本が「持てる」列強といつの日か「一戦交える」、そのシナリオが日本の総力戦論だ、というわけですが、

それはなんだか、「もてない私」が「モテモテ」のアイドルといつの日か「一戦交える」(というか、私はもう○○クンとラブラブなの(ハート))、という関係妄想のシナリオのような気がしてきまして(笑)、

そういえば、ファン心理の暴走は煽られまくっている状態で生じるのでしょうし、音楽分析の爆走は、「猛烈に感動しているこの想い」をなんとか解き明かしたい情熱に駆り立てられてそうなるんだろうなあ、と思い至った次第です。

で、技術というのは、きっかけさえあれば、あれよあれよという間に、ある種の結果が出るところまで物事を推し進めるテコですから、ブワーッと行ってしまうんでしょうね。(ファン心理の暴走にも、「近さ」の感覚を操作するマス・メディアの機構が介在しているわけですし。)

一般化して言うと、政治(臨場感あふれる決断と行動)が技術と骨絡みになる場は、危険度が増す、ということかもしれません。

      • -

片山杜秀さんの淡々とした記述を読みながら、私はコンサートの裏方さんのことをずっと考えていまして、こういう状況でこういうことを言う人がこういう立場へ追い込まれていくっていうのは、ありがちだよなあ、例えばあのときのあの人……みたいに、自分が見聞したことになぞらえながら読んでいました。

(「作品」というのが音楽における、近代的な意味での「技術」の粋であり、「コンサート」というのは、音楽において「技術」と「政治」が結合した状態であり、いわば、戦争の陰画のようなものである、などとまで言えるのかどうか、定かではないですが……。)

そしてたぶん、会社とか団体に正規メンバーとして所属している人だったら、私のように、ヒトが音楽会の本番へ向けて動く様子を覗き見するだけの人間よりも、はるかに生々しく、職場のあれこれといった経験に照らして読むことのできる本だろうと思います。

      • -

で、思うんですが、華やかな舞台・本番の裏側は、それとは一線を引いて静かなのが一番ですよね。

アタフタとテンパってしまう人にじっとしておいてもらったほうがいいのはもちろんですが、「ワタシがやらなきゃ」系の、自分が頑張ってしまって、そういう自分に酔ってしまう人も、ちょっと違うんだと思います。(そういう人は、むしろ、舞台に立って、その頑張りが有効かどうか、お客様にご判断いただきながら成長していくことを目指したほうが良くて、舞台裏で物事を進めるサイクルの中で、自分のやったことの効果を自分自身で判断・フィードバックして補正するタイプでないことが多いですから……。)

茨木で演奏会のお手伝いをするときには、なかなかそのように、静かな舞台裏を実現するところまでたどりつけないことが多かったですが、そういう時でも、自分の乏しい見聞のなかで、ああ、いいなあ、と感心させられた「静かな舞台裏」と、それを実現しているあの人、この団体のことを、目指すべき状態としていつも念頭に置いていたような気がします。

それが具体的に誰か、どの団体か、ということは、勿体を付けるわけではないですけれども、そんな風に「表」に出たりしないことがプライドであるような職種の方々なわけですから、ここには書きませんが……。

「戦場」にも、きっとそういう人がいるはずだし、だからこそ、この本の片山杜秀さんの口調は、音楽評論のとき(=熱狂の渦のなかにいる聴衆の立場で書いているとき)とは違うんだろうと思います。

      • -

とはいえ、そんな風にひととおり納得したとしてなお、それで結局、もてないオレ……じゃなくて「持たざる国ニッポン」はどうすりゃいいんだよ、という問いが残るといえば残るので、そこがオチにたどりつかない「未完の」議論なのですね。

「もてない男」の著者、小谷野敦さんは、しばしば、若者人生相談への最強の回答とされる北方謙三の台詞「ソープランドへ行け」に言及しますが、総力戦・ファシズムへ至る煩悶を解決するソープランドとは何であり、それはどこにあるのか?!(ひょっとしたら、それが「ゲーム」……案外そうなのかも?)

グローバリズムという名前で、すべてのヒトが恋愛というブルジョワな遊戯に参加しければならないと言っているかのような関係妄想へのお誘いが話題になる世の中で、これは他人事ではない、と言ってしまって良いのか、そういう風に言ってしまうことが関係妄想への入口なのか(笑)。

日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)

日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)

[追記:その後、若い奥さんと再婚した「もてる評論家」柄谷行人がこの本を朝日で書評した。http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012070900012.html ]