速報と実証

さて運び込まれるものは?

2012-09-27 - 大阪音楽大学<オペラハウス便り>

リンク先の写真は大栗文庫スタッフの業務中の一コマ、速報されてしまいました。

で、何が運び込まれたのか、待て次回!

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個人の責任と裁量でつぶやいているのだとしたら、そのつぶやきに、その記者が業務として知り得た情報が含まれているか否かが問題になると思う。含まれているとしたら、会社の業務として得た情報を私的に流用していいのか、という話になる。

批評、付けたりワーグナーの超政治とヒトラーの性政治 - 仕事の日記(はてな)

の件は自分自身に跳ね返ってくることなので、この機会に、わたくしの場合をまとめてみます。

1. 現在、私は大阪音楽大学付属図書館大栗文庫で、資料整理の業務委託を受けて仕事をしておりますが、その成果は大学図書館サイト等で公開されます。(既に、暫定版ですが、大栗文庫の放送音楽と編曲をのぞく所蔵楽譜リスト(PDF)が公開されています。)

2. 私の名前で発表した論文は、通常の手続きで「一般利用者」として研究目的で資料を閲覧して書かれています。講演等では、公開されていない音源資料などを使う場合がありますが、これは、その都度、大学図書館に願い出て、許諾を得ています。大栗裕作品のさらなる普及、という大栗文庫の趣旨にかなうとご判断いただけているからなのだろうと思っております。

3. このブログに出している情報は、原則として各種図書館等で入手した資料(当然すべて自腹)にもとづいています。

4. 4月の没後30年記念演奏会「蘇る大阪」とオオサカンの演奏会は、大栗文庫の楽譜をフル活用した公演ですし、「蘇る……」は大阪音楽大学も主催者に名を連ねていますから、わたくしが業務・個人で知り得た情報を総動員して解説を書きました。この2つの演奏会の曲目解説は、大栗裕について、これまでどこにも出ていない情報が色々入っていると思います。大栗裕について、先行文献を踏まえて何か書かねばならない必要のある方は、これらを何らかの形で入手して、ご活用いただければと思います。(オオサカンの演奏会プログラムの曲目解説は、同団が売っているライヴCDにも再録されています。本当は、誰でも入手できるようにブログに公開したいのですが、売り物として出てしまいましたので、そちらをご利用ください。)

一次資料を実際に調査したことのある方ならわかると思いますが、自筆譜とか本人の所持していた遺品などは、それだけでは何も語りません。そうした資料から読み取ることのできる情報を、他の情報と組み合わせて「文脈」を作る必要があります。大栗文庫にある資料は、そこにない他の資料と組み合わせないことには、何もはじまらないわけです。

実際には、「一般利用者」が一度に大量の資料を閲覧申請するのは、通常、資料館にとって「大きな迷惑」ですから、常識をわきまえていれば、事前に資料を独自に集めて外堀を埋めて情報を絞り込んだうえで、どうしてもそれを見なければならない資料を狙い撃ちで閲覧して、最後のピースをはめる、というやり方をするものだと思います。自分たちの持っている資料が「決定打」になったとなれば、資料を出してくださった機関にも喜んでいただけるはず。「大阪俗謡による幻想曲」の論文は、そういう風に書きました。(大栗文庫で閲覧したのは、「大阪俗謡による幻想曲」の草稿と1970年稿の2つだけです。)

唯一、「雲水讃」の論文は、大栗文庫の仕事をするようになったあとで、大栗文庫にある、当時まだ未整理だった資料を使って書いています。未整理状態の資料も、こういう風に使えば「意味」を生み出すことができるはずだ、と一回デモンストレーションして、大栗文庫の資料の潜在的な意義を知っていただくきっかけになれば、と考えてやったことです。

……という感じですが、結論として、特別なことや秘密は何もなくて、(大栗裕については)研究者だったらこういう風にやるんだろうなあ、という手順で淡々とやっております。もちろん白石は、フルタイムに研究活動を行うことを期待されて給与が支給されるような「研究者」ではないですが。

(なお、余談ですが、吉田寛先生が、ときどき、ある人物の書いた文章を収録した刊行物を「一次資料」と呼んでいますが、あれは変ですね。どこかの出版社が販売している『ワーグナー著作集』は、ワーグナーが自らペンを手に取って、紙に書き下ろした自筆原稿(←これが一次資料)ではなく、名前が記されたり記されていなかったりする人物が企画・立案=編纂して、自筆原稿やそれに準じる資料に基づいていたり、基づいていなかったりする版が組まれて、公刊された二次文献です。

出版物では生原稿より初出掲載や初版(活字で出たもの)が重要ということはあるでしょうし、20世紀以後のようにビジネスマンが原稿を秘書に口述するとか、ワープロにデータ入力する、とかになると、何をもって「一次資料」とするか、複雑になりそうですが、紙に文字を本人が手書きしたことがはっきりしている案件については、上のような呼称が一般的だと思います(……よね、わたし、何か勘違いしてますでしょうか、ハンスリックの改訂問題を勉強した人がこういう言葉遣いなのはとても不思議)。

考えてみれば、ハンスリックは各エディションを自分で探して照合したのではなく、各版の異同をまとめた批判版についての論考=論文についての論文だし、その後のお仕事も、既に出版されて図書館へ収蔵された書物の海を優雅に泳ぐところに力点があり、書物がどうやってできあがり、図書館へたどりつくのか、という労働には関心をお持ちじゃない、ということでしょうか。

あるいは、吉田先生はクリスチャンだそうなので、「聖書」はどのような体裁、言語であろうとも、唯一の本 The Book なのか……。

でも、聖書学は、随分前から実証主義が入っていて、文献としての聖書をそのようには捉えないはずだと、私は認識しております。

歴史の実証のために、ターゲットとなる事象との近さによって資料を一次的/二次的と区別するのは、「これこそが直接的で決定的な証拠だ!」と手持ちの資料の価値(一次性)を喧伝して、「二次的」な資料しか持ちえない他人を出し抜き、自己の優位を主張するためではありません。(それは、歴史家ではなく、骨董をランク付けして商品としての流通を促す古物商や、聖遺物を信仰・崇拝の対象にする宗教家の領分です。)そうではなくて、手持ちの資料がこれだけしかない、この案件については、これだけの資料から仮説・推論・解釈を組み立てるしかないんだなあ、と資料の限界を明瞭に認識するためだと思います。

だから、二次的な文献を「一次的」と勝手に格上げするのは、論証のスタート地点がどこなのか、論証をこれから行おうとする論者自身が見極めていないことになり、致命的にマズいと思う。(ただしもちろん、二次文献からスタートするしかない、もしくは、それで用の足りる論証はいくらでもありますし、スタート地点が二次文献であることが悪い、と言っているのではありません。))

書物としての新約聖書

書物としての新約聖書

落語と私 (文春文庫)

落語と私 (文春文庫)

ビデオゲームの「誰かに操られている感じが嫌」とは思いませんが、あっちこっちに人手のかかったスペクタクルで、黒部ダムみたいな大事業だよなあとは思います。

米朝さんの本は、もともと子供向けに書かれたそうですが、円朝の速記が当初は速記という新技術のデモンストレーションだったらしい、という指摘があり、明治の2人の速記者の名前まで紹介されていてびっくりします。寄席の高座に上がるのは一人だけれど、めちゃくちゃたくさんの人間がこの本には登場する。