後進国アメリカの鉄道と産業革命(シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』)

鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化

鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化

今さら感のある文化史の有名な本ですが、鉄道と鉄道旅行が新しい時間・空間表象をもたらした、という、しばしば引用される前半のお話(「近代とは何か」論の人が大好きな)以外にも色々なことが書いてある。

鉄道事故によるトラウマ性ノイローゼ(今風に言えばPTSD?)に関連して「ショックの歴史」という補論があって、

軍隊の革新(あぶみ、大兵団、火器)に起源をもつショックの歴史は、その近代性を伝えている。[……]ショックとは、人工的、機械的に、つくられた運動ないし状態の継続を打ち破る、あの突然の烈しい暴力事件、ならびにこれに続いて起こる破壊の状態、を表わすものである。(195頁)

ウェーバーの「魔弾の射手」の狼谷の場面からベルリオーズの「幻想交響曲」へ、そしてマーラーの交響曲に出現する天変地異の数々は、まさしくオーケストラ音楽における「ショック」の美学の系譜だなあ、と思いますし、

最後に交通網の整備と産業・都市計画の関連で出てくる流通 circulation の話は、似たようなことを色々な人が言ってますよね。

流通の一部となるものは、健康的であり、進歩的であり、建設的である。流通と結びつかぬものは、病的で、中世的で、破壊的で、強迫的である。オスマンの公共事業を、いまの新たな視点から見ることができる。彼が貫徹した街路は、ただ交通のためばかりでなく、都市の生理学のためにも設計されたものであることが判明する。(243頁)

そして夜の街をガス灯や電灯の光で照らすためには、ガスや電気を安定供給するネットワークを構築しないといけなかった、ということで、のちの照明の歴史の本にもつながっていくわけですが、

実は19世紀の金管楽器の改良(ピストン式やロータリー式のヴァルブシステム)は、空気の通り道を合理的に制御しようとしているわけで、19世紀的な都市設計の縮図と見ることができるかもしれない(ということを最近悟った)。

闇をひらく光 〈新装版〉: 19世紀における照明の歴史

闇をひらく光 〈新装版〉: 19世紀における照明の歴史

そして、北米の鉄道については独立した章が設けられていて、こんな指摘がある。

米国では、産業革命は自然なものとして受け止められる。というのも、産業革命は、いわばそれ以外のことを何も知らない米国の歴史に、当初から含まれていたからばかりでなく、産業革命がまず最初に手掛けたのが農業と輸送機関であり、それゆえ自然と具体的に直接的な関係にあったからである。(116頁)

米国が「マニュファクチャーを知らない国」だ、というのは、そういえばそうかも、と不意を突かれたような気がしまして、考えてみれば、開拓時代のお伽噺「大草原の小さな家」ですら鉄道が出てきて、西部劇でも、悪い保安官が支配する街に、正義のガンマンは鉄道でやって来ますもんね。

で、若田部先生によると、開発主義(後進国が狙いを絞って特定産業を官民一体で盛り立てる保護主義)は何も戦後日本の「成功したファシズム」と言われたりする高度成長だけの特徴ではなく、建国当時のアメリカにも、(実現はしなかったけれど)官営工場による産業振興を唱えた人がいたらしい。

北米は、史上最も成功した「旧植民地の発展途上国」なんですね。

(まあ、こんな風な「宗主国ヨーロッパ」からの目線を今さら知ったからといって、その米国の良い子分であろうと頑張って、変な法律を通そうとしているこの国の何かが、すぐに変わるわけではないのは重々承知してますが。)

経済学者たちの闘い―脱デフレをめぐる論争の歴史

経済学者たちの闘い―脱デフレをめぐる論争の歴史

戦後日本の成功を保護主義・開発主義で説明することには、ホンダやソニーは国の保護を得られないまま勝手に海外進出したのだから、というようなことから異論があるようですし、何を保護し、どこをどのように開発するか、予め「知識」がないと動き出せないのだから、保護主義・開発主義は万能ではないし、常に間違いや恣意性のリスクがある、という若田部先生の指摘は色々と考えさせられる。

逆に、「辺境の遅れた国」という自意識をもつところは、「進んだ国」がどうやって「進んだ」のか知識・情報を得ようとやっきになるわけですね。で、このほうが知識・情報をもらいやすくなるんじゃないか、という、あまり上等ではない心根で、「特定秘密の取り扱い」を法整備しようとしたりする。

まるで戦前の軍国主義みたいだ、ということで騒ぎになっている法律の背後には、あらゆる知恵を絞って親分の気を引こうとする「鹿鳴館」な性根があるように思う。出てきた法律は1930年代っぽいかもしれないけれど、その裏にある動機は、当時の究極の学歴社会が生み出したスーパー・エリートさんよりも、はるかに卑屈かもしれない。これがいわゆる、悲劇が二度目はファルスとして反復される、というやつなのでしょうか。

そういえば、反対運動のほうも安保の反復っぽいし……。

なんだか、アメリカの子分になりたい人たちのヤクザな行動原理と、もはや消滅してしまった「共産圏」シンパの人たちの抵抗戦術が衝突する冷戦時代を再現ドラマで見せられているかのようで、ホントにこの問題の急所はそこなのだろうか、という疑念がある。反対派の人たちも、本気で法案可決を阻止したいんだったら、もっと有効なやり方があるんじゃねえの、と思うんだけど。

たとえば、ホントは官僚さんたちが一枚岩なのかどうなのか。役人さんたちを内側から分断して一部を自分たちの味方につけちゃうような戦術とか、あるんじゃないのかなあ。内閣さん・自民党さんの付け焼き刃な国会での対応を見て、「この人たちじゃダメだ」と内心では思っている官僚がきっといると思うんだけど。そういうのをうまく利用しなきゃ。

だって、誰かが反対派へ寝返らないかぎり、現状の対立構図のままでは逆転はあり得ないわけでしょう。それがわかってるのに正面からワアワア言うだけってのは無策じゃないか。