感想

あの法律は、賛成した人にとっても反対した人にとっても、上に立つ人は闘い済んで清々しそうだけれども、現場が困る案件な気がする。そこが嫌な感じ。

ウルバンスキは、前に聴いたときは、卒がなさ過ぎて音の印象が残っていないのだけれども、今回は3曲とも「この曲をこうやるか」と、アピールポイントがはっきりして、指揮者のデモンストレーション(←あ、デモだ)に最適だったかと思う。

こんなにスマートにまとめるか、と唖然としたのはペンデレツキ(音響調整室のツマミを優雅に操作するような指揮ぶり)。こんなにデリケートな音楽もできるんだと感心したのはモーツァルト。

ストラヴィンスキーは、オーケストラとの関係が熟すればするほど、もっと角の取れたすっきりサウンドになるんだろうな、と思わせるアプローチで、演奏としては、角が取れきっていない(=完全に指揮者の思い通りにはなりきっていない)ところがスリリングで面白かったのではないかと思う。その意味で、単体の音楽家として見た場合にどこまでのことができる人なのか、正直まだ半信半疑。オーケストラを整理するやり方は新鮮だけれど。

(ストラヴィンスキーは、普通の人がやるように「一番細かい動き」を基本ビートにしてボトムアップで音を組み立てるのではなくて、その場で鳴っている一番長い音符=一番長く持続しているフレーズの始点・終点をまず決めて、細かい音符のパートには「ここからここまでの空間に音をあてはめてくださいね」と指示しているように見える。これで音楽の流れがスムーズになり、各パートの分業・役割分担がはっきりする。(細かい連符を正確に割るのは、指揮者ではなく各奏者の仕事である、と、その仕分けがクールな感じ。)ハルサイのなかでも、第1部にはこのやり方がフィットする。第2部、特に最後のダンスは、たぶんこれでは処理しきれなくて、じゃあどうするか、そこの持って行き方が、刃物でスパッと切るような音の手触りが面白くはあったけれども、ちょっと若い勢いで押し切っちゃったようにも思えた。)

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シュタイアーは、フォルテピアノから骨董品っぽさを完全に払拭したところが受けているんでしょうね。この楽器は、こんな風に冴えた弾き方ができたのか、と。フォルテピアノは、もうこれで、現代人が現代の感性で距離感なく思うがままに操作できる「現代の楽器のひとつ」になったなあ、と思った。

終始焦燥感でイライラして、移り気で、不機嫌なイ短調ソナタはあと一歩でベートーヴェンの「悲愴」だと思うし、ヴァイオリンとのホ短調ソナタのトリオがdurになるところは、ほぼシューベルトですよね。たぶん本人も、「モーツァルトはこんな風に時代の先端を突っ走った人だったんですよ」とアピールしたかったんだろうと思う。フォルテピアノでちゃんと弾けば、モーツァルトはメチャクチャ新しい音楽なのだ、と。

(でもここまで来ちゃうと、高性能なモダンピアノで同じ曲を弾くことを通じて私たちが発見してきたもの、いわゆるクラシック音楽の数々の名演がもたらす効果とあまり違いがなくなってしまうわけで、この人の出現は、フォルテピアノという楽器が好奇心を刺激した特別な存在だった「古楽復興時代」の終わりの始まり、であるようにも思います。)

佐藤俊介の印象は、前に神戸でベートーヴェンを聴いたときとあまり変わらない。なんというか……華がない(←失礼?)