イベントの経済:(満足度)=(結果)−(期待)

ラジオでも話しましたが、たぶん、そういうことだと思う。

上手い音楽家が上手に演奏して、いまいちな人の演奏がいまいちだったとしても、それは「あたりまえ」なのであって、ライヴイベントとしては、何も起きてない。その感じは、こういう風に定式化できるんじゃないかと思う。

つまり、超有名楽団の来日公演に、入場料に見合う200の期待を抱いて行って、予習のために聴いたCDとほぼ同じ演奏だから、結果も200だとしたら、予想通りであることを確認できただけなので、満足度は0。

ただし実際には、ライブ演奏が「CDとほぼ同じ」になることはありえず、ライブならではの意外な盛り上がりで+20、ツアーで連日同じ曲をやって集中力が落ちているのか、ちょっとヌルいところがあって-10、等々を総合して、結果は180〜220の間に収まっていればよしとすべき、というのが通例かと思われる。つまり、満足度は-20〜+20の間くらいに収まる。

いっぽう、地元の音楽家で、名前も知らない。たまたま知人からチケットをもらって行ったリサイタルなので期待値は50くらい。実際の演奏は、数年ぶりに開いた演奏会でとても丁寧に準備していて、もともとテクニックはある人で60くらいはある印象。選曲がユニークで面白かったから+10で、総合的な結果は70、総合的な満足度+20。

経済学でいう相対優位とは違うかもしれませんが、コンサートのようなイベントが、いわゆる「実力」(演奏結果の絶対評価)だけで面白かったりつまらなかったりするわけではない事情は、こういう風に説明することができるのではなかろうか。

絶対評価での「凄い」「いまいち」の格差が消失するわけではないけれども、上手な団体でも、そうでない団体でも、それなりの楽しみ方がある。

twitterでしばしば見かける「ベートーベン生ではじめて聴いた、感動」というのは、何もわからずどうなるのか予測できないドキドキ状態だから期待もなにもあったもんじゃない。結果は、比較材料がないので、50であっても200であっても、この時点の当人主観は、無限大のプラス評価。人は誰でもそこからスタートするので、これはこれでいい話。

(経済学の教えるところでは、実際の自由市場貨幣経済というやつも、「儲け話」でヒトの欲得を煽る本が世間に出回ってはいるけれど、ひととおり勉強すると、金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに満足な状態を維持できていればヨシとすべし、という話に落ち着くようですね。格差の解消、みたいなことは経済の範囲を超えた問題である、と。)

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さて、そして、

期待を高めたり低めたりする要因として、宣伝が入ると、色々ややこしくなってくる。

主催者=広告主は「この演奏団体の力は150ある」と信じているが、実際には諸々総合的に判断すると、その団体の実力は90くらいである、と言うケースを考えてみる。(90あれば十分立派なものだ、とお考えいただきたい。)

主催者=広告主は、多少謙虚に遠慮したつもりで、実力120の団体ここにあり、と宣伝するのだけれども、結果は100。演奏後の舞台裏は、「今日の演奏、すごくよかったよね」と盛り上がっており、実際、+10くらいの成果があったのだけれど、客席は期待120のところに100の演奏なので、差し引き-20で、イマイチ盛り上がらない。

何が起きているのか?

主催者=広告主さんは、150の実力のある団体が+10のいい演奏をしたんだから、今日の結果は160くらいになっているはずだと思っている。つまり、彼らの脳内では、事前宣伝の120との差し引きで、

満足度:160 - 120 = 40

圧倒的に満足度の高い公演だったことになっているわけです。

一方、実際に演奏した人たちは、自分たちの力を冷静にわかっているので、普段の演奏と今日の演奏との差し引きで、

満足度:100 - 90 = 10

十二分に誇れる結果と考えて納得している。主催者=広告主は、なにやら過剰な夢を抱いている雰囲気ではあるけれど、ベスト・パフォーマンスだったのは確かなんだから、彼らをダマしているわけじゃない。後ろめたいことは何もありません(きっぱり)。

でも、お客さん側は、演奏家自身もそのように納得している本日の結果(100)と主催者=広告主が盛りあげた期待(120)との差し引きになるので、

満足度:100 - 120 = -20

これはちょっと微妙な結果、ということになる。(100のパフォーマンスは、そんなにあることではないので、落胆、ということではないにしても、何かモヤモヤしたものが残る。)

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ただし、お客さんは、通常、とても賢いものです。

「そこまで言う程じゃなかったよな」と思っても、主催者が自信満々だったりすると、「こういう風に身びいきになる人たちっているよね」と思って、先方が気を悪くしないように「次も期待してるよ」くらいに声をかけて上手に対応するし、音楽家が満足そうにしていたら、「別に手を抜いてこういう演奏になったんじゃなくて、この人たちの音楽はこういうものなんだ」という風に納得する。

で、次からは、主催者の宣伝如何にかかわらず、実際に自分が聴いた印象で補正して、この団体への期待は、悪くて80、よくて100、くらいに見積もることになる。

そうして、主催者=宣伝主さんが、そのあとも、「うちは150の実力がある」という思いにしがみついて、前回良かったんだから、次は「実力急上昇中、日本有数の楽団です」と実力170くらいにふかすのを見たら、「あんた、それは言い過ぎや」とツッコムことになるだろうし、上手に言い方を調整してきたら、好感を抱くかもしれない。

(ただし、遠慮しすぎると事前の期待が高まらず、お客さんが集まらないことになるので匙加減が難しいのだとは思いますが……、でも、宣伝は煽ればいい、事前の期待は高ければ高いほどいい、というもんじゃなく、そのツケはどこかで払わねばならない、ということですね。)

報道や批評というのは、「しばしば前のめりになりがちな主催者=宣伝主」と、概して冷静な音楽家、実際の結果を聴くお客さんの間のギャップを埋める調整機構が制度化されたもの、と考えればいいんじゃないでしょうか。

たぶん、この説明で、そんなにおかしなことにはなっていないはず。

ポイントは、通常ヒトは、コンサートのようなイベントを「絶対評価」で楽しんでいるわけじゃない、ということだと思います。(そして「絶対評価」ばかりを追求すると、成金趣味になる。でも、クラシック音楽も、ハイソな金持ちの贅沢「だけ」を追い求めているわけではないはずなんですよね。)

[コンクールという「絶対評価」で審査する建て前になっているゲームの結果みたいなのを基準に宣伝を打つと、コンサートがどんどん実態とかけ離れてつまらなくなる。そのメカニズムも、「相対評価」の視点を入れると、うまく説明できるようになるんじゃないだろうか。「成果主義」は、評価のやり方次第で、アホな仕掛けにもなるし、うまく回る可能性もある。]