桐島よりも、橋本の声が問題なのでは?

新年早々にこれを観た。

桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)

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小さなパーツをコツコツ組み立てる群衆劇は基本的に大好物だし、長い作品じゃないので、既に数回見直しましたが、

えーと、あの、これはつまり、橋本愛(の役)は女子目線で抜群に嫌な感じの子で、彼女はそれをまっとうすることによって、最後に、クランクアップの最終カットであったと伝えられるあの美しいシーン(四角い16ミリフィルムではないシネスコの)をゲットした、という理解でいいのでしょうか。

SAYURIの娘とか、天才子役のメガネ男子とか、「小さなオトナたち」のお芝居は、これで全部ふっとんでしまって(=やっぱりドラマは「言葉・音楽・身体」の配合が問題になる……)、そのようにハシモトがフィルムの中の存在になったあとの世界には、長身のモデルの男の子だけがぽつんと独り取り残される。スクール・カーストというより、物語をヴィジュアルのランキングに変換して、そこに適切な人材をきれいに割り付けた「うつくし」系の映画。

(だから、「醜」の逆襲がドラマとして機能する。トップとボトムがお互いにお互いを支え合って、最近リバイバル気味な網野善彦中世論にも通じていそうなんだけれど、一方で、ハシモトと映画部の「美/醜」の縦軸のヴィジュアルなドラマと、モデル出身の男の子が取り残される原作から受け継がれたストーリーの横軸は、ハシモトとモデルの男の子の絡む場面が一度もなくて、直交したままで終わる。美男美女をそのように撮影するのだけれども、だから、美男と美女が画面上でひとつになることはなくて、アンチクライマックスな不全感を仕組んだ「作家性」の強い映画のように見えないこともない。

でもたぶん、実態は「作家の映画」というのとは違う。むしろ、いかにブサイクにならずに面倒を回避するか、賢い処世術の形式化という感じがします。縦と横に分けて、交わらせないのが「正解」、なのでしょう。

「美/醜」の縦軸と物語の横軸が直交する感じは、空を飛ぶヒコーキの快感(作画の描線・動きの軌跡で勝負することになる)と、製作現場が採算度外視の人海戦術にならざるを得ない群衆の蠢き、というアニメーション美学の縦軸(既に「ナウシカ」にも空を飛ぶ美しい軌跡と地上を這う群れの蠢きの対比があるように見えますよね)が、戦争実録の物語と直交しているハヤオ・ミヤザキと並べて考えた方がいいのかもしれない。)

以上がテクストについての感想。

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でも、この映画の周囲には独特のコンテクストがあるらしいと伝え聞いております。

綿密に張り巡らされた視線の監視網のなかで織りなされるドラマは、たぶん、リアルに2012年の高校生というより、現在20代〜40歳くらいの既に社会人になっている方々のなかにある高校像・セカイ像に訴えるものとして売り出され、広まったんですよね。今の20代〜40歳くらいの方々(ということは今あらゆる方面のお仕事で一番忙しいボジションにいらっしゃって、わたくしも日々お世話になっている)と照らし合わせると、「こういう人、いる!」って、すごく思いました。

口コミとソーシャル・マーケティングで異例のロングランが実現した、ということなのだそうで、おそらくそういう仕掛けをした宣伝斑の方々的には、「口コミとソーシャルを活用することで、テレビを観ない若者層にテレビ局がリーチした」という実績をつくったことになるのだろうと想像するのですが、

でも実際には、なるほど高校生のお話、ではあるのだけれども、そういう作りを含めて、これを口コミとソーシャルで歓迎するのは、現在20代〜40歳な方々である印象がある。

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そう考えると、同じ橋本様が主役の片割れだった2013年のNHKのドラマが、同じような年齢層の方々に強く支持されていたのも、話の平仄が合いそうだなあ、と思ったです。

なんだかんだいいながら、現在20代〜40歳な方々にとって、「綿密に張り巡らされた視線の監視網のなかで織りなされるドラマ」の母胎であるところの「地元/学校」は、「嫌い、かつ、好き」な郷愁の対象になっていて、たぶんそうした方々の人生は、「綿密に張り巡らされた視線の監視網のなかで織りなされるドラマ」の登場人物のひとりとして自らの位置を測定するのが習い性になっていらっしゃる、ということなんじゃないかしら、と思ってしまったのですが、いかがなものでございましょうか。

おそらくそこには現実的な「勝利の方程式」があるのだけれども(あの娘と彼、みたいな)、それをネタバレすることはタブーなのであって、ネタバレするとこの「セカイ」を追放されそう。その恐怖は、おそらく、カンニングするとすべての成績がリセットされるのと思想としては同じことで、非合法(カンニング)であれ合法(誰もそれだけは口にしない正解)であれ、人為的なシステムを失調させてしまう行為・発言が強く忌み嫌われているということなのかなあ、と思ったりもします。

ハシモトは、この映画が緻密に組み立てた「セカイ」の中ではベスト・ポジションにいるけれど、声が良くない。声を出さない者がベスト・ポジションを獲得する筋立てで助かった、なのか、だからそういう筋立てになった、なのか、どっちなのかはわからないし、どっちでも同じことで、そういう風に、そこに触れてはいけないお約束のある人工的な「セカイ」がきれいに組み立てられている。

その「セカイ」を引き継いで、前提にして2013年のドラマがあるわけだから、本当に「歌っちゃいけない」のはドラマ内の役柄としての誰かじゃなくて、実在のあの娘なんだけど、それだけは絶対に言わない、みたいな……。

歌謡曲の構造 (平凡社ライブラリー)

歌謡曲の構造 (平凡社ライブラリー)

歌謡曲における日本音階は日本的音感の「古層」が健在である証しだ、という小泉文夫の説は間違い……というか昭和の野心的文化人の「フカシ」だったわけですが、「歌っちゃいけない娘」をどうやって歌番組に出すか、というのは今もずっとあるようで、どんどんグループのメンバーの数が増えていくのは、群れに混ぜちゃえば大丈夫、という特に新しくはない手法の何度目かの登板じゃないのかなあと思うのですが、どうなのでしょう。

「移ろいやすい音程」(←ドラマでは1回しか出てこなかったけれども、薬師丸の明瞭な声色とともに、このポエムな言い回しは記憶に留めておきたい)とは何か、とか、「歌っちゃいけない娘」が判定されてしまう聴覚・発声のイデオロギーを批判する音痴論とか、知性主義っぽく左翼っぽい立論は、当節、はやらなさそうだもんね。

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そしてそのような「決して口にしてはならない正解」と対応するような形で、天空には、記憶があるかなきかの遠い昔の「神話の御代の物語」みたいな感じに「アイドル黄金時代」が燦然と輝いていて、薬師丸は神、彼女が登場すると、バックバンドが平民的なブラスからノーブルなストリングスにかわって、キーも高くなる、みたいなことなのかも。

「神」(和装、西洋式の「美声」)が機械仕掛けで舞台に登場するのは、コイズミ(あの発声は大瀧詠一系譜学ではどのように説明できるのだろう)が照明で背景を全部とばしちゃった中で歌っているときから、このあとにきっとそんな感じの演出があって「三途の川」が「三代前」になるのだろうと思いましたし(すべてがあるべき形で成就したことはかなり感動した)、「視聴者」の期待を全部拾って、考え得るかぎりすべて予定調和でいこう、というフェスティバル感は、踊りのためのスペースがたっぷり確保してある劇場風の舞台設計から、日本野鳥の会が出てきて、赤い球と白い球を投げて、往年の人気作曲家の先生の指揮で「蛍の光」なエンディングまで、トータルにコーディネートしてある感じがした大晦日でしたよね。

(ゲストのコメントまできっちり台本があるのかなあ、少なくともスタジオ収録の進行表は秒刻みで各パーツが事前に割り付けられていて、ものすごく綿密なんだろうなあ、と思わせられる裏番組の今年のクラシック音楽の回顧は、あとで録画で観た。)