純正品

1/9、日本センチュリー響の特別演奏会を聴いて、飯森範親が「大事な演奏会」と見定めて一生懸命やると、「桐朋系」指揮者の特徴がくっきりあらわれるんだ、ということがわかった。ここまではっきり特徴があらわれる「純正品」な感じは、今ではむしろ珍しいかもしれない。

斉藤秀雄自身は1974年に亡くなっているので、秋山和慶・小沢征爾からはじまって、大友直人(京響)・大植英次(大阪フィル)がそれぞれのスタイルを見つけたところで、ほぼこの問題は決着したと思っていたのですが(今では東京藝大から山田和樹が出てきているし、沼尻竜典や下野竜也はもっと別なところに特徴がある)、「センチュリーの飯森」は、ここからスタートするんですね。

「指揮棒の振り方」とかいうだけのことでなく、音楽を組み立てる構えのようなものとして、「斎藤メソッド」から出発した人特有のものがある、と私は思っていて、それは、少なくとも大きく崩れることがないから楽員が安心、お客さんも安心、とか、そういうことを含めて、ひとつの「文化」だと思う(「だったと思う」と過去形にすることはまだできないんだな、ということが「現在進行形な飯森範親」で判明した、してしまった、と言うべきか)。

外国に出て行くと、「斎藤メソッド」指揮者は、鈴木メソッドな弦楽器奏者、JOCな自作自演キーボード奏者と並ぶ、「クラシック音楽家になった東アジア人」の典型と見られ得るわけですよね。

(ああ、そういうご夫婦なんだな、ということにもなるでしょうか。あくまで事実の確認として。)

具体的なことは、これから長いおつきあいになるのでしょうから、いずれまた。

(開演前の予ベルで、お客さんを客席に入れたあとになってからプレトーク、というのは、映画館で「ノーモア映画泥棒」を見させられた余韻のなかで配給会社のクレジットが出て本編がはじまるのに近い感じがしてしまうので、できれば再考していただきたいが。)