私はあの人の思い出を誰にも言わずに墓場まで持っていく文学少女、アニメなんて見ないわ

病む女はなぜ村上春樹を読むか (ベスト新書)

病む女はなぜ村上春樹を読むか (ベスト新書)

まとめると、こういった人物像をイメージしておけばよいのでしょうか。

こんな小説なら、宮崎駿の出来のいいアニメや、『デスノート』や『新世紀エヴァンゲリオン』のほうがよほど面白いのであって、SF小説というのは、もはや映画やアニメに叶わないというのが私の持論である。

でも、昭和後期の「純文学」が売れた時代の残り香のなかにいる人間はアニメに抵抗があって、そうなると、いわば、アニメの代用品としてハルキが読まれる、という感じか。(代用品とは、通常、本物よりあとに出てきた新参の粗悪な模造品である、と考えるのは古典主義者の偏見であって、一定の歴史を経た「小説」が歴史の浅いジャパニーズ・アニメーションの代用品になったりするほうが、ポストモダンっぽくていいかもしれない(笑)。)

だいたいこのあたり[石原慎太郎が『太陽の季節』で登場した昭和三十年あたり]から二十年ほどが、日本で「純文学」が売れているとされた時代なのである。

戦後、女子も大学へ行くようになり、私立大の文学部などでは女子のほうが多いという時代、ペギー葉山の「学生時代」(一九六四)に歌われているように、女子学生は、嫁入り前の教養の一つとして、日本近代の詩や小説を読んだのである。

昭和30年頃から昭和50年頃までの20年というと、クラシック音楽が大衆的教養(変な言い方だけれど)として聴かれた時代とも重なるし、そこから出てきた最大のスターが、ハルキと先頃対談本を出した小澤征爾だ。

これもひとつの滅び行く昭和後期の無形文化財だと思えば、ハルキ文化圏を見る目が多少は優しくなろうというものか。