脱メイド

デイジー(グレート・ギャツビー)もパウル(死の都)も、家にハウスキーパーを雇う階級の人間である。

そのことは、過去においても現在においても変わらないので、おそらく彼らとそのパートナーは、一生、家事に煩わされたことがないと考えられる。

そして、だからこそ、過去にすがるか、現実や未来を直視するか、というのが純粋に美的・趣味的な問題になり得るのであって、美的・趣味的な領域に、どうしても譲ることのできない一線を引く奇矯な人々を舞台に乗せることが、興行として成立するのだとも言えるだろう。

例えば「死の都」は、家政婦を取り仕切る「家の管理職」となるべく躾けられた往年のブルジョワ女性(の文化)が滅びるかもしれない不安の広がっていた第一次世界大戦直後だから、「こうなったら、見た目重視で若い踊り子を代わりに家に入れるのもしょうがないか」というパウルの判断が、やっぱこれからはそうなっていくのかなあ、と客席のブルジョワたちにアピールしたのではないか。

東のほうに労働者のソヴィエトが建国されて、ウィーンが赤く染まろうとしていた時代だし……。

そして現在でも、人を雇って自分では家事をやらない人・階級がいて、いちおうオペラというのはそういう階級が昔からの常連である建前で興行され続けているわけだから、そのつもりで見ないとしょうがないよね。

その上で、時代とシンクロする「問題」が、ここでは深刻なテーマになっているというより、「そんな風にも読めるけど……」という程度のことでしかなく、ブリュージュの町の雰囲気等をくみ取る原作の魅力や数々のディテールと、それを勤勉・緻密に音で追いかける音楽などなどの合わせ技で辛うじて作品が成立しているところが、楽しみ方が多いともいえるし、足腰が弱いともいえる(←芸術史では、こういうのをマニエリズムと呼ぶ。江戸町人文化はどうしようもなくズブズブにマニエリズムだと思うし、ダニエル・ハーディングが東京で受けるのは、たぶん、マニエリズム都市のメンタリティにジャスト・フィットなのでしょう)。

しかも今となっては、旦那と子どもの食事の支度をしてから劇場に駆けつけて、帰宅したら、干してあった洗濯物を取り込まなきゃいけない、みたいな立場で観たら、パウルは今だろうが昔だろうが、わたしらからすればほとんど区別がつかないくらいうらやましい生活を続けているわけで、庶民からみた羨ましいモデルハウスのような舞台装置とか、甲斐甲斐しいマリーの幽霊(実際のマリーがあんな風にハウスキーピングをちゃんとできたはずがないと思うのだけれど)とか、そういうのを入れないとしょうがないのだろう。

結構、綱渡りで辛うじて勝ち取った成功という感じがします。

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翻って考えると、日本の戦後、栗山昌良などがオペラに取り組んだ時代は、オペラ運動がその種のスノッブと手を切る可能性が模索され、それが成算ありと期待されていたのではないかと思う。

あれは、スノビズムに肘輝を食らわす態度で「死の都」を上演することは可能か、可能だとすれば具体的にどうするか、という彼なりの解答だったのではなかろうか。

第2幕は、戦後焼け跡でたくましく女たちが生きる「肉体の門」な感じだったし、栗山昌良にとって、「戦争のあと」というのは、自動的に、第一次ではなく第二次世界大戦のあとになっちゃうんだと思う。おそらく栗山ワールドでは、メイドに家事をまかせるような生き方は、考えるまでもなく問答無用に「間違った生き方」なのでしょう。

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そう考えると、日本にもっとオペラを根付かせたい!な人たちがああいった作品を安心して愛でる状態をキープしたいのであれば、次にやるべきなのは、日本の富裕層に家政婦を定着させて、一生家事をしない階級を復活させることになるのではなかろうか。

私個人は、たぶんそこまで「背伸び」するのは無理・無謀だし、家事が視界から排除された高踏的でスノッブなエンターテインメント、みたいのとは違う可能性を探した方がいいんじゃないか、という意見だけどね。

「死の都」みたいなブルジョワの末路は、たまに観たらそれで十分。