舞台の言葉を書く力

さて、今回の公演、何が興味深かったといって、

 「言葉でこんなにも響きが違うものか」

 ということを、実感したことにつきます。

言葉がオペラを変える〜三枝成彰「JR.バタフライ」イタリア語版@プッチーニフェスティバル | 加藤浩子の La bella vita(美しき人生) - 楽天ブログ

一週間ずっと、どこから違和感を解きほぐせばいいのか宿題のように考え続けているのですが、

やはり、島田雅彦にはオペラの台本として劇場で朗々と響かせるに足る言葉を書く力がない、ということに尽きる気がする。

そしてその背景にあるのは、日本で小説家と劇作家が過去数十年で完全に別の職業になって、小説家が舞台の言葉をどう書けばいいのかわからなくなっている、ということだと思う。

今では、作曲家のほうも事情を察して、普通は、いきなり小説家に台本をオーダーしないですよね。

一足飛びに、「日本語は音楽劇に向いてない」と言われたら、いきなり責任をなすりつけられて、日本語さんも吃驚仰天だと思う。

イタリアのユマニストの末裔のような人たちが嬉しそうにギリシャ悲劇の復活(としてのオペラ作り)に興じていた同じ頃、浄瑠璃とか芝居小屋の台本とか、それなりに面白く書く人がいたり、口語に移行したあとも、いい大学を出た文豪さんたちが、ああでもない、こうでもない、と知恵を絞って、日本語にも、一定の実績があると思うのだけれど……。

隣の芝生は青く見える。