本当にそれが問題なんだったら、大学の顧客(学生)が損害賠償請求の集団訴訟をすればいいんじゃないの?

もしその案件が、正当な理由のない教員の解雇なのであれば、そしてもしその教員に学ぶことを目的として在学している学生がいるのであれば、実害を被るのは学生なのだから、脅迫に屈することなく○○先生を支援する学生運動ってなことになるはずなんじゃないの。

例えば、音楽会は、主催者側が明白な過失を認めるのでないかぎり、公演が中止になったり、当初の告知とは違う変更があったとしても払い戻しが行われるとは限らないし、槍が降ろうが何があろうがそんなこと関係なく私はその音楽会へ行く、という人が一定数いるはずだという前提で、対応策を考える。お客さんはこの程度のことで音楽会が中止されることを望んでいないだろう(それだけのものを私たちは準備し提供できるはずだ)、という一方の軸があるから、音楽会の中止を考えざるをえないような問題が生じたときの対応は、様々な選択肢の間でどうするか、悩ましい事態になる。

「どうせお客さんは音楽会があろうがなかろうが大した問題だと思ってないだろう」という風に、もともとやる気のない企画だったら、ややこしそうな問題が起きたらすぐに止める、という情けないことになるだろうが……。

……ということで、その学校のお話は、脅迫云々で嫌な時代になった、軍靴の足音、みたいなこと以上に、「あんたら、やる気あるの」的な疑惑がもちあがりそうなところが、嫌な感じなんじゃないだろうか。

(攻撃する側は、弱っちい奴らだ、と図に乗りそうだし。)

「早々に解雇」は、大学の尊厳を欠く行為として嘆かわしいのではなくて、むしろ、そういうやり方でほんとに客商売を切り盛りしていけるのだろうか、というところが周りを不安にさせる。

この件と、文科省の学校支配なるものとをごっちゃにして、大学の先生たちが、やたら「不安だ、不安だ、嫌な世の中になった」と嘆くのは、思想とか学問論とかではまったくなくて、「おれたちの会社、保つの、今の経営陣は大丈夫なの、もうダメなの、ダメなんだったら、転職考えなくちゃ」等々、ごっつい世俗的なサラリーマン談義だと思う。別にいいけど。

実際に大学教員はサラリーマンなんだし、その件を建前で取り繕ってもしょうがない、というのは、丸山真男が東大を辞めた全共闘騒動のときに決着のついた既知の事実ですよね。

日本経済が強かった頃の企業戦士の皆さんも、「俺たちが日本を支えているんだ」と一方でデカイ夢を語りながら、飲み屋で上司の悪口とか言っていたんだろうと思いますし。

そして建前を言えば、学者が帰属意識を持つべきは、大学・研究所じゃなく、学会のように可視化されたり、個人同士のつながりであったり、文献の山を媒介としたヴァーチャルなものであったり、現れは色々であるような知のコミュニティのほうですよね。

大学論は学問論の必ずしも中心的ではないサブジャンルだと思う。

外からの脅迫だけでクビになるようではやってられない、という世俗的な雇用不安はあって当然なのだから、雇用環境の改善のために運動したらいいんじゃないの。今さら職場組合の再生が難しいんだったら、法的根拠は現状ではないけれど、そろそろ職能組合みたいな枠組みを構想して経営者(含む役人&事務方)に対抗してはどうか? 今はまだないものを世間に先駆けて構想・立案・試行するって、めちゃめちゃ学者・知識人っぽくかっこいいじゃないですか。

内田樹に「街場の連帯論」とか、書いてもらえばいいんじゃない?