Speciality という病:19世紀的な知の「特殊/一般」という対概念に固執する旧来の大学人の発想を日本的経営の「総合職/一般職」の区別に接ぎ木する日本的就職の不幸について

近代の学問には、それぞれの領域に固有なspecialityを見いだし、分野学科を分ける発想があるが、経済は、入門段階で比較優位という考え方が出てくるように、特殊と一般の区別にそこまで固執しない。つまり、価値の交換における分業は、特殊と一般の仕分けというアイロニカルかもしれない知性の働きとは、軸がずれている。

そして社会の運営としても、一般と特殊の切り分けに固執することは「世界で一つだけの花」風の果てしない細分化に帰結して筋が悪いと考えられつつあるように思う。

学問も、特殊と一般の軸を掲げる態度を再考する頃合だろう。

近代音楽美学の祖なのかもしれないハンスリックは、音楽特有なもの、特殊音楽的なものを追い求めた論考で知られている。

私はバーンスタインの「北米的」な音楽論と彼が議論の下敷きにしたと思われるハンスリックやフルトヴェングラーの音楽論の差異を音楽美学の授業で20年来考え続けているが、

ハンスリックで修士論文をまとめた吉田寛先生の博士論文にもとづく「音楽の国ドイツ」論には、18世紀の general/allgemein という世俗的な概念を神学的な universal と混同して書かれていると思われる箇所がある。

それは、奇しくも、「進歩史観」という、日本的経営を擁護する議論から出てきた「特殊日本的な論争概念」をドイツ音楽論に安易に適用する問題含みの文脈でのことだった。

考えてみれば、日本の企業には、女性を雇用する際に「総合職」と「一般職」の区別を設ける慣習がある。吉田寛先生の思考には、「総合職=正社員」vs「一般職=補助業務」という奇妙な区別からの類推で、「一般」の語を暗黙に低く見る発想があるのではないだろうか。

しかし、総合職/一般職の区別を英訳するのは困難で(おそらくこの区別は雇用における不当な女性差別の温床になり得る懸念がある)のと同様に、general/allgemein を special より低く見る発想は、21世紀の現在の文脈では、まったくもってグローバルではない。たぶんその武器では、「世界で闘えない」。

(ただし私は、「世界」をゲーム/競技場ではなくマーケット/市場だと考えるので、「闘い」という表象に違和感があり、闘えるか否かをそこまで重視しないけれど。)

[追記]

ついでに言えば、「一般」と「特殊」という18世紀啓蒙主義風の区別が教養市民の制度として確立した19世紀後半は、音楽をめぐるエクリチュールに「戦争」「闘い」の比喩が連発されるナショナリズム/帝国主義の時代、近代国家間のパワー・ゲームの時代だった。学問・芸術・文化が special を追い求めた時代は、General = 将軍の時代でもあったわけです。

「世界」という「ゲーム」で「闘う」という表象は、21世紀の未來へ向けたヴィジョンというより、19世紀後半の「昨日の世界」への屈折したノスタルジーの疑いがある。

20世紀の扉を開いた「大戦争=第一次世界大戦」は飛行機と機関銃の登場で誇り高き General =将軍たちに引導を渡したとされており、General の地位失墜のあとも、知の speciality だけが生き残る、と考えるのは認識が甘いと言わざるを得ない。

[追記おわり]

「大学の自治を守れ」というサラリーマン大学教員の主張と、大学経営の健全化という官僚・大学職員のスローガンがかみ合わないのは、一方の、自らの業務は「特殊 special」な専門職である、という根拠があるのかどうか今となっては不明瞭で再定義が必要なのにそうなっていない大学教員の自己認識 identification の混乱と、他方の、「総合」と「一般」の奇妙な区別(類似の区別は官僚におけるキャリアとノン・キャリアの間にもありますよね?)を温存したままになっている大学職員の日本的雇用形態の間で、議論が迷走している一面があるのではないだろうか。

(そもそもこの議論は、教員と職員の待遇をめぐる内輪の争いに過ぎず、学校という舞台のもうひとりの主要プレイヤーである「学生」の位置づけがすっぽり抜けたままになっているし……。議論の発端は、学費徴収や奨学制度の塩梅が「学生の」個人利益なのか否か、ということだったはずなのにね。)